断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

辞書と私

 文科系の研究者がこうした題で作文するとき、辞書と自分の「親しい関係」について語ることが多い。辞書に関するさまざまなうんちくとか、同じ辞書を何十年もぼろぼろになるまで使っているとか、そういう話題である。残念ながら私のはそんな話ではない。学生時代、私は辞書を引くのが大嫌いだったのである。
 はじめて手にした外国語の辞書は、研究社の「英和中辞典」だった。これは通っていた中学校で買わされたもので、語彙数の多い中上級者向けのものである。しっかりした辞書を一冊買っておけば、末永く使えるだろうという親心だったのだろうが、残念ながら中学生が使いこなせる代物ではなかった。中学高校時代を通して、私は辞書を引く習慣を持たなかった。
 大学に入学してからは選択必修でドイツ語をえらんだ。半年で文法が終わると購読の授業がはじまる。原書の小説が与えられ、知らない単語を片っ端から引いていった。
 当時私が持っていた辞書は、郁文堂の「独和辞典」であった。学内新聞か何かで推薦されていたのを、そのまま信用して買ったのである。あとから分かったことだが、これは完全に中上級者向けの辞書で、語彙数も多いし、初心者向けの配慮もない。とにかく引くのが大変であった。
 しかも、第二外国語をやったことのある方はお分かりと思うが、初級文法を半年やっただけでは、手持ちのボキャブラリーなどゼロに等しい。だからテキストを読んでいても、出てくる単語をほとんど全て引いているという感覚なのである。そんなこんなで私は、辞書を引くのが完全に嫌いになってしまった。
 その後、紆余曲折を経て、私は語学教師として稼ぐようになった。今では、かつての自分の辞書嫌いなど忘れたふりをして、学生に辞書を引けと命ずる毎日である。
 振り返って分かるのは、ともかくも辞書を引ける(引くのが苦にならない、楽しんで引ける)ようになったのは、ある程度ドイツ語ができるようになってからだということである。ところが外国語ができるために、まずもって辞書をたくさん引かなければならないのだ。
 これは一種のジレンマである。なるほど英語なら、何年も時間をかけてじっくりと勉強することができる。しかし第二外国語はそうはいかない。まだ十分に辞書を引けぬ内から、目いっぱい辞書を引くことを迫られるのである。今では電子辞書もあるし、テキストも註つきの親切なものを使うようになっているが、基本の事情は変わっていない。
 これは、いわばカナヅチをいきなり海に放り込んで泳ぎを覚えさせるようなもので、それで泳げるようになる人間もいれば、溺れてイヤになる人間もいる。私もいったんは溺れかけ、ほうほうの体で岸にたどりついたのだが、何かの拍子にもう一度、海に入ってみる気になったのである。