断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

クラシック音楽とは何か?


 十代のころ、私はモーツァルトの音楽ばかり聴いて過ごしていた。明けても暮れてもモーツァルト、他には趣味らしい趣味もない日々だった。教養をつけようとか、そんな聴き方ではなく、純粋な楽しみからそうしていたのだが、こんな偏頗なことをしていれば他の音楽ジャンルへの蔑視が生まれるに決まっており、事実私の中には、永いこと、クラシック音楽はエライもの、他の音楽は二流のものという差別心が存在していた。
 そうした偏見が是正されたのは、かなりの後になってからである。すぐれた芸術作品の中にも人間の野蛮時代の記憶が響いているというニーチェの言葉が、ようやく私にも分かるようになったのである。三島由紀夫はワグナーの音楽に関連して、「拷問と奴隷化のかなたには、永遠の歓喜と死と美がよこたわっている。」と評し、同じものがベートーヴェン「第九」にも感じられると書いているが、たしかにクラシック音楽は、この種の不気味な官能性に事欠かない。多くの芸術作品には、有史以来のさまざまな人間的情念が、醇化され洗練されたかたちで蓄積しており、その点では「高級な」芸術作品も、暴力的な映画やゲームと変わらない。いわゆるハイカルチャーサブカルチャーの違いは、人間精神の価値の上下というよりは洗練の度合いの違い、一個の文化の内部におけるニュアンスの差異なのであろう。
 しかし芸術作品における洗練の度合いの差は、量の差というよりは質の差なのである。なぜならば洗練度とは、この場合フロイトのいう「昇華」に近く、昇華のプロセスが芸術を生み出す以上、その程度の差とは、作品が「どれほど芸術であるか」を決定するファクターにほかならないからである。つまり洗練の度合いというのは、芸術の本質的な契機をなしている何ものかである。その意味で、「あらゆるテクストを等価なものとみなす」という価値相対主義的なアプローチは間違っていると思う。シュークスピアもテレビドラマも「等価なものとして」読むのでは、作品を作品たらしめている本質的なものが見逃されてしまうに違いないからである。