断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

車・スキー・ウィンドサーフィン

 
 ご存知のとおりドイツのアウトバーンは速度無制限で走れる。しかしいくらスピードが出ていても、自分でハンドルを握っていなければ面白くない。「車を動かしている」という感覚がないからである。
 むろん車を動かしているのは、実際には機械のエンジンであって人間ではない。私たちはただハンドルを握っているだけである。では、スピードではなくて操作する行為自体が楽しいのかというと、それも正しくない。単に操作を楽しむだけなら、たとえばゲームセンターのヴァーチャル・マシーンのようなものもある。しかしその愉しみは、実際の車の運転とは明らかに質的に異なるものである。
 車の運転は、エンジンのパワーが、アクセルやブレーキを通して直接に私たちの感覚につながっているから楽しいのである。そこには、内燃機関のパワーが、あたかも私たち自身のものであるかのような「手ごたえ」がある。この「力」の感覚こそ、スピードを出す快の核心にあるものであり、それはたとえばスキーやスノーボードのようなスポーツの快とも通じるものである。私たちはそこで、外部の力を借りながら、あたかも自己自身の力が増大したかのような気分を味わうのである。
 高校時代の体育の教師が無類のスキー好きで、つねづねスケートよりもスキーのほうがずっと楽しいと言っていた。スケートは自分の足で蹴らなければならない。しかしスキーは斜面に立っているだけで加速していく。この感覚がたまらないというのであった。
 なるほどスキーでは、外部のパワー(重力)を借りてスピードを出している。だがそれは、エッジを立て体重移動を行うことで、重力のパワーを自在に扱えるから、つまり本来自分のものでない力を自分のものとして扱えるから楽しいのであって、その点では、単純に重力に身を任せるだけの橇の楽しみとは違う。また同じ理由から、覚えたてのスキーがあまり楽しくないのは、下手くそで転んでばかりだからというより、滑走の際の「力」の感覚が、十分に自分のものと感じられないからであろう。それはアウトバーンで助手席に座っているのと同じことなのであろう。
 自分のものでない外部のパワーを、操作という行為を通してあたかも自分のもののように感じるというのは、何もスキーや自動車に限ったことではない。人類がはじめて手にした原初的な道具、たとえば弓矢や刀などの武器や各種の農耕具といったものは、何らかのかたちで人間がもつ以上の力を人間に与えるものであった。同時にそれは、仕組みが簡単でほとんど人間身体の延長のようなものだったから、彼らはちょうど現代人が車やバイクで感じるような「力の増大の快」を味わっていたはずである。
 むろん現代人だって簡単な仕組みの道具を使っている。だが私たちは、色々な意味で道具の使用に慣れきっているから、それが「外部の力」であることに無自覚になっている。はじめて道具を使いはじめた人たちは違ったはずである。そこにはもっとずっと新鮮な、ほとんど子供らしい喜びがあったであろう。
 こんなことを私が考えたのは、じつはウィンドサーフィンを覚えたときの感覚があまりにも素晴らしくて、帆船を発明した古代人の感覚を想像せずにはいられなかったからなのである。はじめて帆を使い、風の力を自分のものにした古代人は、どんなに新鮮な喜びを覚えたことだろう。彼らはその便利さに驚くよりも先に、自己の力が増大する感覚に子供らしい純粋な楽しみを感じたに違いない。それは「道具」であるよりも先に「玩具」だったのではないか。そしてそのような快は、人間が道具を発展させていく過程で、私たちが考えている以上に重要な動機を担っていたかもしれないのである。