断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展

 静岡市美術館でやっている「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展に行ってきた。平日の朝一番ということもあり、館内はがらがらで、おかげでゆったりと回ることができた。これは地方に住んでいることの役得みたいなものであろう。東京では絶対にこうは行かない。
 展示内容自体はいわば玉石混交だったが、この種のテーマ展では仕方がない。こういうときは黙って、目玉作品を目当てに足を運ぶべきである。
 遠近法の発明とルネサンスの開花により、中世的なものが消失した(それも一気に払拭されてしまった)という見方は、今では俗説として否定されており、実際には中世的なものは、ルネサンス以降も長く残存していたのであるが、文化および芸術における中世的なものの残響は、私たちが普通に考えている以上に大きい。しかもそれは、ひょっとしたらルネサンス芸術の核心をなす何ものかかもしれないのである。
 宗教的な世界観から人間中心の思想への転換、生への、此岸的なものへの賛歌は、一般にルネサンス芸術の本質と考えられている。しかし私がルネサンスの絵画を見ていつも思うのは、これは単純な人間賛歌などではないということである。ルネサンス芸術の最高の精華、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画に見られるある種の崇高さは、たぶん、官能的に昇華された宗教性(逆説的な言い方ではあるが)というべきものなのである。すなわち中世芸術における生硬な、ほとんどなまのままの観念の表象が、官能によって肉付けをされ、「美」へと昇華されたものこそ、ルネサンスの絵画なのである。したがってそこにおける「中世」は、様式的には否定の対象に過ぎないが、内的契機という点ではむしろ本質的な何ものかであって、これこそは後代の画家たちが真似ようとしても決して真似られなかったものだと思われる。
 たとえば「モナ・リザ」の背景をなす風景は、近代風景画の端緒と見られたりもするが、私自身は同じものに、むしろ東洋の山水画に近いものを感じる。つまりそれはなまのままの自然というよりは、すぐれて観念的な美的表象であり、その観念性とは、中世キリスト教芸術とほとんど地続きのものと思われる。
 さて会場には何点かの「モナ・リザ」(数種の複製と別ヴァージョン)が並べられていた。その中から最もオリジナルに近いと思われるものを択んであらためてじっくり眺めてみた。微笑をふくむモナ・リザの表情は、人間が一人でいるときに示す表情ではない。それは明らかに他の人間へ向けられた表情なのだが、主観と主観のあいだを媒介する「表現」というよりも、何か微妙な仕方でそれ自身のうちに沈潜しており、いわば存在そのものとして私たちに語りかけてくる。しかし人間の表情が、「表現」としてではなく「存在」として語りかけてくるとき、それは主観と主観とのあいだの絶対の距離を、一種の到達不可能性を示さずにおかない。それゆえこの微笑にふくまれている誘惑は、なにか絶対の拒絶の形式として現れているのである。かつてこの絵を見つめるうちに気が変になる者が何人もあったというエピソードがあるが、あながち誇張ともいえないかもしれない。