断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

日本語と自動車のデザイン

 近頃は日本車のデザインも大分よくなった。一昔前までは日本車というと、見るからに野暮であったが、最近はそんなことも少なくなった。十年十五年前までは、ヨーロッパ車とのデザイン面での差は歴然としていたのである。
 その頃、生まれてはじめてヨーロッパに行く機会があって、そのときにヨーロッパの街を走る日本車も目にした。意外にもそれは、日本で見るよりもずっと見栄えがした。これには比較の対象という問題もあり、日本でヨーロッパ車に乗るのは金持ちだから、たいていは新しい型の車に乗っている。一方ヨーロッパでは一般庶民も乗るのだから、街には日本では見かけないようなオンボロの中古車も走っている。旧式のヨーロッパ車と並べれば、新式の日本車のほうが見栄えがするに決まっている。つまり日本におけるのとヨーロッパにおけるのとでは、比較の対象が微妙に違っていたのである。だが、そうした事情を差し引いても、やはりヨーロッパで見る日本車は良かった。それは日本で見るよりもずっとシックでスマートに見えた。同じ車のはずなのに、なぜこうも違って見えたのか。
 違いは車のナンバープレートにあったのである。同じ日本車でも、横文字のナンバープレートをつければ、見た目がぐっと引き締まる。変な言い方だけれど、それはずっと「自動車らしく」見える。逆に言うと、漢字を表記した日本のナンバープレートは、それだけでデザイン上、大きなハンディキャップなのである。
 「陰影礼賛」の中で谷崎潤一郎がこんなことを書いている。もし日本人が、自力で化学や物理学を考案していたら、技術は今あるものとは違うものになったに違いない、そのときは技術の産物である工業製品も、もっと日本人の感性に合致したものになっていたであろう、と。私たちは科学というものを、普遍的で価値中立的なものと考えている。だが実際には、科学においてさえ、それを産み出した文化や歴史の特殊性が、いわば感性の質ともいうべきものが刻印されている。自動車を産み出したのはヨーロッパである。それに似合うのはやはりアルファベットの横文字なのである。漢字や仮名文字では逆立ちしてもフィットしない。これは、いわば自動車という商品の根幹に関わる問題というべきで、ちょっとやそっとデザインを工夫したぐらいではいかんともしがたいような気がするのである。