断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

8月7日②(フィレンツェ)

 ウフィツィ美術館で驚いたのは、多くの人がひたすら写真撮影に没頭していたことである。名画をカメラで撮ること自体が悪いというのではない。問題はその撮り方である。ファインダー越しに絵とにらめっこし、シャッターを押す。そして自分の目では一切絵を見ずに(!)、そのまま次の絵へ移るのである。何ともったいないことをするのだろう。これでは何のために美術館へ来たのか分からないではないか。そもそもここに展示してある絵の多くは、ウェブを探せばどこかしらに転がっているようなものばかりではないか。
 かつてベンヤミンが論じたように、オリジナル(実物)とコピー(その写真)との違いは、オリジナルが「今ここ」に一回的にしか存在しないのに対し、コピーは時空を超えて流通するということである。しかしコピーにはコピーなりの「一回性」がある。それは「自分がこの美術館へ来て、かくかくしかじかの名画の前に立った」という「事実」である。訪問客が名画を撮るのは、この「事実」を記録するためなのである。
 ベンヤミンの生きた時代には、一般市民がカメラという高価な機器を気軽に所有することは難しかったであろう。それゆえ撮影者は、たとえば商業的カメラマンとして、匿名的な存在にとどまるしかなかったであろう。あるいは芸術家としてのカメラマンならば、画面に彼自身の存在を刻印することもできたかもしれないが、そのばあい刻印されるものとは、「個性」という不可視のものであって、そのときどきの彼の個別的状況ではない。一人のカメラマンによって撮られた風景には、彼の個性的なまなざしが宿っているかもしれぬが、彼がその地を実際に訪れたという「事実」は、さしあたりどうでもよいことである。
 いっぽうスマホタブレットで写真を撮るというのは、多くのばあい個人的な行為であり、その画面は、被写体のみならず被写体と撮影者との個別的な関係性をも表現している。スマホで撮られた名画は、被写体そのものとしては、世界中に流通する「コピー」の一つに過ぎない。しかし撮影者の「今ここ」を記録しているという点では、唯一無二の一回的なものなのである。そこにあるのはコピーそのものの「オリジナル性」である。「自撮り」の流行は、現代における写真の役割を象徴している。