断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

近況と雑感

 最近はちょっと疲れているので、折にふれて書き留めてあった短いメモ風のものを並べるという形式で。

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 職場の同僚のIさんと話していて、世代間ギャップの話が出た。私自身はそうしたギャップをあまり感じないのだが、それは私が「若い」からではなく、そもそも同世代の人間との世代的な共有感をまるで持っていないからだろう。当たり前のことだが、世代間の隔たりなどよりは個人の性格の相違のほうがよほど大きい。年が上だろうが下だろうが人間的シンパシーは感じるうるし、逆に同世代でも異星人としか思えない人は多い。だが、相手の人間のありのままの姿を見るというのは、それほど易しいことではない。そのためには「自分」を捨てなければならない。相手に良く思われたいとか、恰好をつけたいなどとせこいことを考えていると、他人を見る目が曇ってしまう。あらゆる人間関係において言えることだが、ここでも自然体にまさるものはない。 

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 久しぶりにゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を読んでいる。といっても手に取ってパラパラとめくり、ところどころ立ち止まって目を通すといった程度である。今さら言うまでもないことだが、これは最高の精神による最高の書物で、字面を眺めているだけでこちらの心が高揚してくる。ここでは「生」の手触りが余すところなく「精神」の相貌を帯び、「精神」はまた目にも見え手にも触れるものとなっている。

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 古本屋でヒルティの『幸福論』(岩波文庫)を買った。家に帰って本をめくったら、真っ先にこんな記述に出くわした。

結婚生活において静かな尊敬や友情を求め、かつ見出すのと、熱烈な愛情を求めるのと、そのいずれがよりよい結婚といえるかは、常に議論のつきないところであろう。われわれは一般的な規則という意味では、前者に賛成する。しかし後者を知らないものは、人生の何であるかを知らない人である。

 これは『幸福論』の作者ではなく、ほとんどラ・ロシュフコーの書きそうなことだが、実はそのとき私は、一緒に『ラ・ロシュフコー箴言集』も購入していたのである。書物というのは、何か目に見えない糸のようなものでお互い引き合うものらしい。

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 俳句のほうはすっかりご無沙汰してしまっている。精神的にゆとりがなかったというのがその「理由」だが、こんなものは「言い訳」に過ぎないだろう。年内にもう一度投句のチャンスがあるので、これは逃さないようにしよう。

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 「和」と「洋」の不思議なハイブリッド。おそらくはこれが「昭和的レトロ」の本質である。これに対して最近の建築は「和」と「洋」のアマルガムである。ところでこのアマルガムには二つの行き方がある。「洋」の枠組みに「和」を流し込むか、「和」の枠組みに「洋」を流し込むかである。いずれにしてもここには、伝統的な建築空間への愛着ばかりでなく、日本的な功利主義も絡んでいる。ありていに言ってそれは「みみっちい」のである。しかし日本建築の本領は、そのような「繊細な矮小さ」だけにあるのではない。山の中の古い寺などに見られる豪快な「和」の建築様式は、茶室的な「和」に見慣れた私たちの蒙を啓いてくれる。

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 近所に「私の哲学の道」がある。梅や桜、紫陽花などが見事な川沿いの小道で、今は山茶花が咲いている。気分転換にそこをよく歩く。以前は猫と一緒にこの道を散歩していたが、今年の春、よそへもらわれていってしまった。道を歩いていて交差点へ出るたびに、左右を見て安全確認するような利口な猫だった。リードも使わずに散歩し、「おいで!」と呼んだらすぐに私のところへ飛んできた。