断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

池大雅瞥見(「西湖春景・銭塘観潮図屏風」)

 さる一月二十五日、東京国立博物館の常設展示を見てきたが、池大雅の作品で大きなものが二つ出ていた。「楼閣山水図屏風」と「西湖春景・銭塘観潮図屏風」である。
 「楼閣山水図屏風」は国宝で、展示解説でも「ベストオブ大雅」などと持ち上げられていたが、個人的にこの手の即興的な筆致はあまり好きではない。むしろこの絵の魅力は、物語的な楽しさと大雅らしい飄逸な人物像、禅画を思わせる無個性の個性ともいうべき人物の表現であろう。
 「楼閣山水図屏風」は国宝が展示される本館2階第2室に置かれていたが、「西湖春景・銭塘観潮図屏風」は同じ2階の第7室に出されていた。こちらはランクが一つ下の重要文化財である。六曲一双で、右隻が「西湖春景図」、左隻が「銭塘観潮図」となっている。
 「西湖春景図」は大雅の天才的な構成感覚がいかんなく発揮された作品である。西湖を中心に描かれた島や山々は、画中に巧みに配置されているというよりは、むしろ対象相互の関係の力動性によって、空間そのものを新たに生成しているように見える。構成の妙を尽くしている反面、細部の筆致はやや粗いので、ある程度離れた距離から眺めるとよい絵である。
 「銭塘観潮図」はそれとは対照的に筆致の妙を尽くしており、こちらは近づいてじっくりと味わうべきだ。この絵における大雅のタッチは、精密というよりは一種の「力」を感じさせるものだが、その「力」とは、雪舟や永徳のような筆勢の強さではなく、むしろセザンヌ的な筆致の「のっぴきならなさ」である。一筆一筆が、まるでこの場で生れ出たばかりのように生き生きとしている。この瑞々しさはちょっと比類がないものだ。今回、この記事を書くにあたってウェブ上で画像を検索してみたが、筆の見事さは、やはり実物を見なければ分からないと痛感した。
 世には数多くの「名画」があるが、見ていておのずとため息が出てしまう絵というのは、そうざらにあるものではない。「西湖春景・銭塘観潮図屏風」はそうした稀な絵の一つである。