断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

上野公園の桜

 昨日は東京芸大の初回の授業日だった。いつもだったらすでに桜の花は散っているはずだが、今年は開花が遅く、まだお花見もできそうである。少し早目に着いたので、上野公園を散歩することにした。公園口から中央の広場へ向かい、西郷隆盛銅像へと降りる坂のほうへ曲がろうとすると、ふと外国の雑踏へ入るような感覚がした。見ると周りは外国人の観光客だらけである。比率にして七、八割はあるだろうか。去年のお花見の時期にもたくさんの外国人観光客がおり、海外のテレビ局まで来ていたが、今年はそれ以上であった。
 京都や奈良のような歴史的建造物のある場所は、建物の存在そのものが固有の空間性を形成しており、いかに多くの外国人が訪れようとも、無言でそこが日本の空間であることを「自己主張」している。しかし桜並木のような自然の景観には、そのような確固たるものが欠けている。いきおいそれは、そこに集う人間の質に応じて、融通無碍に空間性の質そのものも変化させる。外国の雑踏の中にいるような感覚は、桜並木を歩きながらずっと私の中から抜けなかった。じつは私自身は、こういうアモルフな場の雰囲気が結構好きなのではあるが。