断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな土地



 五月になった。写真は自転車でよく行く散歩道の風景である。研究の合間にのんびりと一人歩き、いや一人走りしたりする。落ち込んだりストレスがたまっていたりするときは最高の気分転換になる。
 ここへ引っ越してきてすでに何年か経つ。私はこれまでに何度か引っ越してきたが、振り返ってみるといつも山や丘のある土地を択んでいる。これは私が幼少期から中学高校時代にかけて、起伏の多い土地ばかりで過ごしたことによるのであろう。はっきりと意図して引っ越し先の地勢を択んできたつもりはないが、気がついたらそうした土地ばかり択んでいたのである。
 そうはいっても私は、無意識的に住む場所を択んできたというわけではない。私は自分が「いいなあ」と思った場所を択んできている。そして山や丘に囲まれた町を見れば、自然と「いいなあ」と思うし、だだっ広い平坦な土地にはあまりシンパシーを感じない。
 ジンメルがこんなことを言っている。山や丘のある土地は、風景全体に有機的なつながりが存在している。そうした土地では「上」と「下」が相互に規定しあっているが、「上」は「下」との関係によって「上」であるのだし、逆もまたそうだからで、そのような相互規定性が、空間全体に有機的な「つながり」を与えるのである。ところでこうした「つながり」はだだっ広い平地には存在しない。そこでは建物と建物が互いに無関心に並在していて、相互規定的な連関は介在しえないからである。
 しかし私は思うのだが、ヨーロッパの町はたとえ平地に築かれてあっても、町全体に景観的統一感というものがある。そこにはともかくも一定の「秩序」がある。いっぽう日本の街並みは、建物と建物とが互いに無関心に建てられている。自分の家屋を、町全体の景観的統一を考慮しつつ建てるという思想は、日本にはない。だから日本の平地の町は、ヨーロッパよりもはるかに無秩序で無機的である。そこでは建物はバラバラの並在性の中に置かれている。ちょっと大げさにいうとそれは、人間相互のつながりが希薄となり、個々人がバラバラの砂粒のような存在となった現代人のありようを象徴しているようにも見える。
 私が山や丘のある起伏に富んだ町が好きで、だだっ広い平野の町に魅力を感じないのは、どうやらこのあたりに理由がありそうである。