断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

8月27日(フライブルク~バート・ラガーツ その2)

 切符を買って美術館に入り、荷物をロッカーへ入れた。重い荷物から解放されてようやく一息ついた感じである。旅行中はなるべく身軽に動き回りたいから、極力荷物は減らすようにしているのだが、一ヶ月の長旅ともなればそれなりに荷物がかさばる。今回は駅でコインロッカーに入れてこなかった私が悪いのだが、それに限らずあらゆるシーンで、重い荷物は鬱陶しい。ポーターがいたらどんなにいいだろうなどと思ってしまうが、それはそれで別の重たい荷物を抱えることになるのだろう。
 チューリッヒ市立美術館の展示は、十九世紀までは玉石混交といった感じだったが、二十世紀(といっても主に世紀の前半)は素晴らしいの一言だった。マルク、カンディンスキー、クレー、モンドリアンなどの一級品が息もつかせず私の前に立ち現われた。フィレンツェはもちろんフライブルク滞在中に訪れた美術館も、展示の中心は古い絵画だったから、二十世紀の絵画をまとめて見たのは、この旅行中ではじめてである。ちょうど京都を訪れた外国人が、古いお寺ばかり見続けて食傷気味になるように、私も、いわゆるオールド・マスターに代表されるヨーロッパ古典絵画の夥しい集積に少々うんざりしていた。そんな折に眺めた一連の二十世紀絵画は、おそろしく新鮮で爽快で、感動的なくらいの風通しの良さを感じた。たしかマリネッティ(だったと思う)が「傑作なんてもうたくさんだ!」と伝統への呪詛の言葉を吐いているが、二十世紀初頭の画家たちがこぞって伝統に反旗を翻したことの内的必然性を、身をもって理解したような気がした。
 展示を見たあとは荷物を置いたまま外へ出、ライン川にかかる橋まで散歩した。時間がなかったのでそこで止したが、橋からの眺望は風光明媚の一言で、ぜひ再訪したいと思った。