断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

8月28日(バート・ラガーツ~チェレリーナ その2)

 ふたたびチェレリーナ駅へ戻り、サン・モリッツ行の列車に乗り込んだ。終点のサン・モリッツまではわずかな所要時間だが、すぐに車掌が検札にやって来た。切符を取り出して見せると、「この切符はどこで買ったのか?」と詰問し始めた。どうやらチェレリーナ駅で途中下車したことが問題だったらしい。私は、切符は前日にチューリヒ駅の窓口で購入したこと、そのさい駅員に、チェレリーナで途中下車してからサン・モリッツへ向かい、その後再びチェレリーナへ戻る行程で切符を作成できるかどうか尋ねたこと、彼は「できる」と言って出してくれたこと、等々を説明した。まるで犯罪の取り調べでもされているようなキツイ調子の尋問だったが、こっちとしては「駅員に出してもらった」の一点張りで行くしかない。最後に彼女は「この切符を写真に撮っていいか?」と訊ねてきた。もちろんいいですよと答えると、その場で携帯に収め、ようやく切符を返してくれた。
 ほどなく終点のサン・モリッツに到着。ホームへ降りようとすると、先ほどの車掌がデッキで携帯電話で話していた。どうやらチューリヒ駅に電話を入れ、あちらの駅員に詰問しているようであった。
 保養地として有名なサン・モリッツはイン川の谷沿いに開けた町で、駅のすぐ裏にはサン・モリッツ湖の眺めが広がる。ここからイン川をさらにさかのぼると、チャンプフェー湖、シルヴァプラーナ湖、シルス湖と三つの美しい湖が立て続けに現れる。この一帯がオーバー・エンガディンと呼ばれる地方である。シルス湖のほとりシルス・マリアには、ニーチェ1881年から88年にかけて夏を過ごした宿が残っており、「ニーチェ・ハウス」として記念館になっている。ちなみにこの日の宿を取っていたチェレリーナという町は、ニーチェ、ルー・ザロメと三角関係を演じたパウル・レーが、最晩年を過ごした場所でもある。
 バスに乗ってシルス・マリアへ。ニーチェ・ハウスに寄ってから、フェックス谷へ続くハイキングコースを歩く予定である。バスを降りてニーチェ・ハウスを探したが、なかなか見つからない。地図ではバス停のすぐそばにあるはずなのに、なぜか見当たらない。それでもようやく見つけると、扉が閉まっていて入れない。なんと開館時間は15時から18時(!)で、今はまだ閉館中なのであった。ハイキングのほうを先にすることにし、ニーチェ・ハウスは帰りに寄ることにした。しばらく歩いてからもう一度振り返って見たが、背後にすぐ山が迫っている、何となく陰気な場所に建てられた建物であった。
 フェックス谷への道を歩き始めた。初めはやや急な登りだったが、すぐに高低差の少ないなだらかな道になった。痛めた足にまだ不安があったけれど、これなら全く問題ない。旅の前半に訪れたインターラーケンは観光地臭がかなり強かったが、ここはそれほどでもない。「手つかずの自然」などといった代物ではない。それでも、風景にしみついている「人間の匂い」は、よっぽど少ないという印象だった。広くのびやかな谷の底に白い川筋が光り、白壁の古い民家が点在していた。
 谷の奥にあるホテルがコースの折り返し地点である。行きと帰りは別のルートを歩き、再びシルス・マリアへ戻ってきた。結局、ニーチェ・ハウスには入館せずにバスに乗ってしまった。バスに乗っている間に急に雲行きが怪しくなり、電車に乗り込んだら雨が降りだした。チェレリーナ駅に着いた時、雨はひどい土砂降りになっていた。ちなみに傘は、宿に置いたカバンの中に入れっぱなしだった。


ハイキングコースからの眺め


同じくハイキングコースにて


フェックス谷の眺め