断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ヒルティとワイルド①

 コンビニの書棚を見ると、自己啓発書や健康法、ダイエット、税金対策、サイドビジネスの指南書などと並んで、「開運本」とでも呼ぶべき本が置いてある。友人が「この手の商売はあやしい宗教とスレスレだ」と言っていたが、逆に言うと「あやしい宗教」は、「この手の商売とスレスレ」だということなのだろう。
 元来、宗教は「心の救い」を説くものだから、開運やら願望成就やらを「売り」にしている宗教は、それだけで疑ってかかるべきである。また、仮に「本当の」神様がいるとしたら、運を金と引き換えで売るようなまねは絶対にしないはずである。(そんなことをしたら、賄賂で便宜をはかってくれる政治家と同じになってしまう。)運を金で買うというのがマトモな発想でないことは、ちょっと考えてみればすぐに分かることである。ところがいつの世にも、そうした「宗教」に引っかかる人間が一定数存在する。それはなぜなのだろうか。
 一つには、「どこかにおいしい話が転がっているに違いない」というさもしい願望が、誰の心にもひそんでいるからであろう。また、自分がそういう「おいしい話」を手に入れることができる「特別な存在」だという、一種のナルシシズムも働いているに違いない。あるいは、ご先祖を救うとか、悪いものを祓うとか、そういった「スピリチュアル」な話題に目をくらまされてしまうのかもしれない。
 しかし私は、それらのこととは別に、「成功イコール幸福」というような発想の図式が、私たちの心に巣食っていることも、大きいのではないかと思っている。なぜならば、こうした開運ビジネスないし宗教にしても、あからさまに人間の欲望や執着を煽っているはずはなく、「幸運や成功を通してあなたを幸せにします」みたいな謳い文句を、客にちらつかせているに違いないからである。思うにこちらのほうが、より根の深い問題ではないだろうか。というのも、これは宗教云々に関わらず、現代人に共通の価値観ないし思考様式に関わる問題だからである。