断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ヒルティとワイルド②

 私たちは、何とはなしに、幸運や成功によって幸せになれると思っている。だが、ちょっとでも人間や社会を観察してみれば、「幸運」や「成功」がそのまま「幸福」につながるわけではないことはすぐに分かる。逆に成功は、ときに心の幸福を阻害さえする。『幸福論』のヒルティがこんなことを言っている。

 
結局大切なのは、なんらかの財宝を所有することではなく、これを所有することによって人が幸福を感ずるかどうかである。財産を欲しがる者、名誉を喜ぶ者、享楽にふける者もやはり、彼等の求めるものをそのまま目的として欲するのではなく、彼等の目から見て目的のために欠くことのできない手段としてそれを欲するのであって、その目的とするところはやはり幸福感なのである。
 しかし彼達は、この点で間違っているのである。なるほど彼達は、彼等のまさに欲するものを手に入れるであろうが、心の満足は得られない。これが実に、世界秩序の真に崇高なるゆえんであって、とらわれない目で見る人は必ず、これによって世界秩序の存在を覚るであろう。彼等がその欲するものを得るそのこと、つまり彼等の成功それ自体が、かれらの罰なのである。

 
 かりに成功や幸運を手に入れたとしても、今度はもっと大きな成功が欲しくなるだろう。あるいはそれを守るための苦労や心配をせねばならなくなる。物質的な欲望や執着は際限がない。それは人間から、心の自由を奪ってしまう。
 もちろんヒルティも、物質的なものの必要性を否定しているわけではない。ただ、それを人生の中心的な価値基準にしてしまえば、心の満足はけっして得られないだろうと言っているのである。本当の幸福はもっと別のところにある。彼はそれを「何とも名状しがたい真の幸福の充実」と呼び、「これのただのひと片らをでも一度所有した人は、もはや地上のどんな財宝ともそれを交換しようとは思わないようなもの」だと述べる。この「幸福の充実」がいかなるものであるかについては、実際に『幸福論』全三巻を読んでいただくしかない。(一つだけ指摘しておきたいのは、ヒルティの「幸福」は、仏教の「悟り」と案外近いものだということである。彼が「利己心」と呼ぶものは、仏教が「煩悩」や「執着」などと呼ぶものにほとんど等しい。)
 「世界秩序」とか「彼等の成功それ自体が、かれらの罰なのである」などといった文言は、一見したところ、キリスト者たる彼の真面目といったところがある。ニーチェならばそれを「弱者のルサンチマン」と呼ぶかもしれない。
 だがヒルティは、一方で、心の弱さこそ最大の悪であるとも言う。彼はキリストを「高貴」の典型に挙げているが、それはキリストにおいて「小さな者や貧しい人、虐げられた者や罪ある者に対するこよなくやさしい愛情と、当時のすべての高位の者、富める者、権力ある者らに対するこよなく偉大で沈着な自信とが、ならびなく正しく結びついていた」からである。(この対極にあるのが、「弱い者や貧しい人」に対しては傲慢かつ軽蔑的で、「高位の者、富める者、権力ある者ら」には卑屈にへりくだるという人物であろう。)
 それゆえヒルティはこう述べる。「ささやかな人たちを軽蔑するのは、高貴ではない。」(現代日本で流行している「ポンコツ」という「軽蔑用語」が思い出される。)「高貴であるためには、もの怖じしないこと、どんな事情のもとでもこの世の何かに威圧されないことがぜひとも必要である。」また「真の高貴はどこか愛すべき形をそなえ、真に尊敬すべきものに対しては、心からの敬意を払うが、にせの高貴にはそうしたものが欠けている。」