断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ヒルティとワイルド➂

 さて、オスカー・ワイルドが『獄中記』でこんなことを書いている。


人生なるものが方法と手段の注意深い計算による狡猾な投機であるような、もっと機械的な人間なら、どこへ自分が行こうとしているかはいつも知っており、またそこへ行くわけである。かれらは教区吏員になるという欲望をいだいて出発する。そして、どのような場所に置かれようと、教区吏員になることに成功するが、それだけのことだ。(中略)高名な弁護士とか、判事とか、その他同じように退屈ななにものかになろうとする人間は、かならず望みどおりの者になることに成功する。それがかれらの罰なのだ。(西村孝次訳)



 ヒルティは敬虔なキリスト者であり、高潔で清廉潔白な人格者であった。ワイルドは世紀末デカダンの唯美主義者であり、道徳否定の快楽主義者であった。一方は非利己的な生き方を実践し、他方は個人主義の極みを生きた人だった。かくも対極的な生き方をした二人が、それぞれ全く別の道を歩み、最後には同じような結論に至っているのは、面白いことだと思う。
 しかし非利己主義も個人主義も、それを徹底させれば、世間のありきたりな価値観を度外視せざるを得ない。否定せずにはいられないはずなのだ。
 ヒルティは「高貴」について、こうも述べている。


「高貴」の反対は「不良」とか「悪性」とかではない。もちろん、これらは決して高貴なものではないが。「高貴」の反対は「卑小」「狭量」「小市民的」とか、あるいは生活の小さな目標しか念頭になく、それも自分自身か、自分の身近かな周囲だけしか考えないことである。(『幸福論』より)


 これにはワイルドも、無条件で賛同するに違いない。