断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

12月2日、土曜日。

 地面から伸びてきた朝顔の蔓が家のベランダにからんでいて、夏の時分は朝ごとに薄い紫色の花を開いていた。秋になって蔓も葉も徐々に茶色にくすんでいったが、温暖な気候のせいか十二月に入ってもまだ緑が残っている。いつ枯れてしまうのだろうと思っていたら、今朝、新しい花を一つ開いていた。
 以前、盛岡出身の学生が「静岡には冬がない」と愚痴っていたのを思い出した。普通に考えれば寒い冬はイヤな季節のはずだが、長年親しんできた生活の一部分が取り外されてしまったようで、身体にしっくり来なかったのであろう。
 静岡でも冬は寒いが、それでもどうかすると空気の芯に、かすかな温もりが残っていたりする。私は盛岡で冬を越した経験もあるのだが、あちらは春になっても空気の芯にひんやりとした手触りが残っていて、そのまま日差しが強くなって初夏に突入したという感じだった。静岡に本当の意味での冬がないとしたら、同じ意味で盛岡には春がないと言えるかもしれない。
 近所の川沿いに散歩道があってよく歩く。梅や桜、アジサイの花がきれいな道だが、今は山茶花が咲いている。折しもそばには紅葉が真っ赤に色づいていて、「霜葉は二月の花よりも紅なり」という杜牧の詩句を思い出した。杜牧の桃の花は心中の映像だが、山茶花は私の目の前にある。紅葉と山茶花と二つを並べてみると、なるほど紅葉の赤ははるかに深く鮮やかである。道の向こうには遠い山並みが見えるが、そこにも赤い霜葉が日を浴びて燃えるように輝いていた。
 立ち止まってぼんやりと眺めていたら、手押し車に身をもたせた老人が介護の婦人とともに通りがかり、「今年は紅葉がきれいだねえ」とつぶやいていった。そういえば昨年の静岡は、木々がほとんど色づくことなしに落葉してしまったのであった。