断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

従容として必死に

 二つの大学の試験期間が重なり、問題作成やら採点やらで忙しかったが、ようやくゴールが見えてきた。まだ全部終わったわけではないけれど、もう一息というところまで来ている。
 試験期間に先立って退官する先生の送別会があった。この時期は新しい出会いや別れの時期でもある。昔、ある先生が退官するにあたってこんなエッセイを書いていた。その先生は若いころから登山をやっていたのだが、クライミングなどでパーティーを組むとき、ザイルを使って生死をともにするというケースが生じる。さて、相手を切り捨てれば自分が助かるというようなシチュエーションに直面したとき、果たしてどうふるまうか?その先生は初めて会った人間を見るとき、そんなシチュエーションを想像してみるのだという。つまり自分が助かるために相手を切り捨てるような人間か、それとも修羅場においてもあくまで信義を貫くような人間かである。
 言うまでもなくこの想定はかなり傲慢なものである。自分自身は相手を裏切らないという前提に立って、相手の人間性だけを秤にかけているからである。たしかに世の中には、一目見てそれと分かるような「裏切者の心性」を持った人間がいる。その一方で、修羅場でも信義を守るような立派な人物もいる。しかしたいていの人間は、その時々でどちらに転ぶか分からない「善悪を併せもった」存在である。そして、ぎりぎりの場面で従容として死に赴くなどというのは、ふだんからそれなりの覚悟を決めていなければできない話なのである。
 しかも人間という生き物は、実際に生死を分かつような状況に直面すれば、猛烈な生存欲が湧く。この「生存への意志」は、実際にそういうシチュエーションを経験して見ないと分からない。しかも、それがひとえに自分の意思と力にかかっているようなケースでないとダメである。病気で死を宣告されるというようなケースなら、ある程度心の整理をして死に立ち向かうというようなことも可能である。しかし溺れかけて自分の力次第で生きもすれば死にもするというようなケースでは、人間は猛烈に「生きよう」とする。
 こんなことを言うのは私自身、そのどちらの経験もあるからである。(ただし病気のほうは幸い再検査で事なきを得た。)私のまわりには「地震津波が来てもそのときはそのときだ」と悟りきったようなことをいう人もいる。しかし私は断言できるのだが、そういう人間に限って、いざとなれば誰よりも必死に生き延びようとするものなのである。