断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

遊び・遊び・遊び(1)

 学期末試験やそれに伴う採点などの作業は、十日ほど前に終わった。何はさておき羽を伸ばしたい気分だったので、焼津で温泉のはしごをしてきた。
 焼津には温泉を引いたホテルや施設がいくつもある。いわば焼津観光の目玉の一つになっているわけだが、源泉の湯量はそれほど豊富ではないらしく、お湯を循環して使っているところがほとんどである。その中で「元湯なかむら」という源泉かけ流しのお湯があると聞き、前々から一度行ってみたいと思っていた。今回の「はしご」の目的の一つはここのお風呂である。
 住宅地の一角にあって目印らしい目印もなく、建物も目立たない外観だった。お風呂も、今どきのオシャレな入浴施設とは縁遠い民宿の内湯のような風呂だったが、お湯そのものは素晴らしく、私の知る限り静岡近郊で一、二を争う泉質であった。
 その後、もう一つ別の温泉に入った直後に湯あたり状態になってしまい、やむなく温泉巡りはそこで終了。何となく物足りない気持ちだった。
 一日の終わりに「今日はサボってしまったなあ」と思うような日がある。やるべき仕事を十分にこなさぬままま、一日が過ぎてしまったというような日である。それは「遊び」についても当てはまる。まだ遊び足りない、十分に遊びきっていない、そんな感覚である。その日の感覚がまさにそれであった。
 そもそも遊びというのは、遊んで遊んで遊び尽くして、もはや遊ぶのにはうんざりというところまでやらないと意味がない。そうして初めて「仕事をやりたくてしょうがない」という気持ちに戻れるのである。
 そんなわけで先週の土曜日、再度の小旅行をしてきた。掛川駅天竜浜名湖鉄道に乗り換えてフルーツパークというところへ行く。浜松北部の山の中にある広大な施設である。立春の寒波が来る直前で、晴れて暖かい一日だった。うららかな日差しが降りそそぎ、裸の果樹をしっとりと水のように濡らしていた。折しもいちご狩りの季節だったが、すでに梅の花も咲き始めていた。
 梅の花には、何か野外に点々と光が灯っているような風情がある。古い日本画では、画面に胡粉を点々と落として梅を描くが、それはこの風情にいかにも適っている。そうすることで梅は、画面上に無数の小さな光のように見えるのである。ところでこの風情を味わうには、三月よりも二月のほうがふさわしい。三月になると日差しそのものが強くなり、梅のあの「灯っている感じ」がかき消されてしまうからである。
 果樹園のある東エリアからエンターテインメント色が濃い西エリアへ。あちこち見て回ってからカフェへ入り、ビールを飲みながら文庫本をめくった。再び駅へ戻って天浜線で「奥浜名湖」と呼ばれる浜名湖の北辺エリアへ。時間がなくて車窓から湖を眺めただけだったが、掛川駅まで帰ってきたとき、すでにあたりは真っ暗になっていた。