断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

遊び・遊び・遊び(2)

 その後、日をあらためて漁港で有名な用宗へ遊びにいったのだが、これについては別の記事で紹介することにしたい。
 井上靖が「旅情・旅情・旅情」というエッセイの中でこんなことを書いている。

 ただ厄介なことは、旅情は求めて得られるものではないということである。こちらで掴みとるものでなく、向こうからやってくるものである。人が自分で作り出すものではなく、自然に生まれてくるものである。だからこそ旅は面白いのである。気まぐれな神さまが、それを思い出したように、時折り旅行者に与えてくださるのである。

 だが、そもそも旅情とは一体いかなるものなのか?それについて井上靖はこう書いている。
 
それなら一体旅情とは何だろう。私は旅情というものは、私たちが旅において、異なった土地の風物に接して、人生を感じ、人生を感じさせられた時初めて生起してくる旅独特の思いであると思う。ただ遠いところへ来たというだけでは旅情は生まれない。遥けくも来つるものかなという旅の思いは、遠隔感だけからは生まれてこない。どこかで人生的な思いと結びついていなければならない。

 人生的な思いと結びついた旅の感慨、たとえば「初めて自分が足を踏み入れた町の持つ灯ともしごろの何ともいえぬ物悲しいたたずまい」や、「北国の自然とそこに生きる人間とが結びついて強い感動で迫って」くる体験、あるいは「波止場を眺め、人の世の離合集散とか、哀別離苦とか、そういった種類の感慨に胸を掻きむしられ」る思いなどというものは、たしかに、それほど頻繁に訪れるものではない。
 しかし旅情には、その前段階ともいうべき「旅心地」というものがある。いわば心が日常を離れて「旅のモード」に入る状態である。この状態は、旅に出てすぐ始まることもあれば、ある時点から急にそうなることもある。ゆっくりと始まって、気がついたら旅心地がついていたということもある。いつ始まるかは分からない。予測もできない。その点では井上靖のいう「旅情」と同じなのだが、面白いのはそれが、大きな旅ほど早い段階であらわれやすいということである。反対に近場の旅行では、いつまでも日常の感覚を引きずったまま旅が終わってしまうということもある。
 何年か前にちょっと大きな旅行をしたことがあった。駅で列車に乗り込み、ふだんから見慣れた車窓風景をぼんやり眺めていると、空に大きな入道雲がかかっているのが目に入った。そのとき不意に「旅心地」がついた。心の底から大きな上げ潮のような高揚感が湧き、子供のように浮ついた気持ちで、居ても立ってもいられなくなった。
 「旅心地」は多分に心理的なものである。それは嘱目の風景によって触発されるというよりは、旅への期待によって誘発されるものなのである。
 小さな旅をいくつもするよりは、大きな旅を一つしたほうがよい。そして、できることなら一度も行ったことのない場所へ行くべきである。量が質に転化するというのは、旅の技術における切実な真理である。逆にいうと近場の小さな旅は、一番テクニックを要する難しいものなのかもしれない。



浜松フルーツパークにて。遠くに赤みがかって見えるのが咲き始めた梅園。その向こうの丘の上に東エリアの果樹園が広がっている。



梅園の風景



果樹園の風景



東エリアの丘の上からの眺め