断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

『氷川清話』のエピソード

 勝海舟『氷川清話』(角川文庫)の中にこんなエピソードが載っている。富籤の祈祷がよく当たるという評判の行者がいた。一時は相当に羽振りがよかったが、やがて落ち目となり、最後はみじめな末路をたどったという。その彼が、若き勝海舟に向かってこんな話をした。
 ある日、一人の婦人が彼に富籤の祈祷を依頼に来た。美人だったので思わず口説き落とし(この行者は肉食妻帯はおろか人妻にも平気で手を出すような人間だったらしい)、一夜をともにした。その後、見事に富籤が当たり、彼女は行者に礼を言いに来た。行者が図に乗ってふたたび口説き始めると、彼女はおそろしい目でにらみつけ、「亭主のある身で不義なことをしたのも、亭主に富籤を取らせたい切な心があったばかりだ。それにまたぞろ不義をしかけるなどとは、不届き千万な坊主めが」としかりつけた。行者には「その眼玉としかり声がしみじみ身にこたえた」という。
 またある日のこと、すっぽんを買ってきてみんなで食べることになった。ところが皆こわがって料理をしようとするものがいないから、自分で料理しようとした。するとそのすっぽんが「首を持ち上げて、大きな眼玉をして私をにらんだ。」行者はかまわず料理したが、どうにも後味の悪いものが残った。
 この二つのことが何となく心に残り、次第次第に気が弱って祈祷も当たらなくなってしまったという。「つまり自分の心にとがめるところがあれば、いつとなく気がうえてくる。すると鬼神と共に動くところの至誠が乏しくなってくるのです。そこで、人間は平生踏むところの筋道が大切ですよ」そう言って諭した。勝海舟はこの教えを大切にし、「おれが一生のお師匠様だ」と回想している。
 さて、祈祷で富籤を当てる(!)などという芸当ができるかどうか分からないが、しかし万一できるとしても、そんなインチキ行為(要は「神様」にお願いして、裏でこっそり手を回してもらうわけだから)に「至誠」も何もなかろう。つまりこれははなから「自業自得」の類じゃないか、とツッコミを入れたくなるのだが、それはともかくとしてこのエピソードはなかなか面白い。何しろプラトンが『国家』で数百ページを費やして到達した結論を、たかだか数ページでさらっと言ってのけているのだから。