断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

早春の用宗

 用宗は静岡と焼津の間にある漁港の町だ。静岡駅からは西へ二駅、時間にしてほんの七、八分である。焼津との間にはJRの石部トンネルがある。新幹線や東名高速日本坂トンネルと並行し、二キロを超える長さである。
 駅からすぐ近くに海水浴場があり、何年か前に泳ぎに行こうとしたが、直前にサメが出る騒ぎになって取りやめた。電車ではよく通るけれど、ほとんど降りたことがない。有名な用宗漁港もまだ見たことがなかった。立春も過ぎ、列島を襲った猛烈な寒波もおさまりかけた頃、ふと思い立って出かけてきた。
 石部トンネルを抜けると、駿河湾の眺めが広がった。だが海はすぐ民家の陰に隠れ、列車はそのまま用宗駅に入った。
降りたのは僕一人である。いま来たトンネルの方を見ると、険しい山がそびえている。落差数百メートルの急な斜面をストンと海へ落としたような感じである。ここの国道は崩落の多い難所で、ちょっと前まで無期限の通行止めになっていた。再び開通させるために新たなトンネルを掘らねばならなかったという。そんな話に相応しい峻険な山容だが、広葉樹に覆われた山肌はあくまでも南国らしく、早春の光をきらきらと散りばめていた。
 改札から駅前の広場へ出た。正午過ぎである。背後に山が迫っているせいか、平野とは空気の感触が違う。大気の襞に凛とした張りがひそんでいる。
 駅を出てそのまま用宗港へ向かった。着くのに五分とかからなかった。方形に掘削した小さな港で、広めのヨットハーバーくらいの規模である。港というよりは船の避難所のようだ。だが港の歴史は古く、昔は深い入り江になっていて、「往返の諸帆尽く此の湊に入る」といった賑わいぶりであったらしい。
 港に面した「どんぶりハウス」という店へ立ち寄った。用宗の港はシラス漁で有名だが、残念ながら禁漁期間中だったのでマグロ丼を頼んだ。荷物を置いて港を見物していると、大声で店員さんに呼ばれた。店へ戻ってトレーを受け取り、吹きさらしの席に座った。売り場の横に運動会で使うようなテントがあり、客はそこで食べるのである。
 一見して観光客と分かる客と漁業関係者とで半々だった。目の前を軽トラが通り過ぎた。見ると荷台に男が寝そべり、気持ちよさそうに日を浴びている。カモメが港の上を、翼を風に乗せて鷹揚に往き来している。
マグロ丼を食べ終えると、向かいにあるカフェに入った。海辺らしい明るい店内で、採光を意識した大きな天窓がある。ケーキをかじりながらノートを取り出し、しばらく書き物をした。
 三十分ほどでカフェを出、駅へ向かった。来るときは大通りを歩いたが、今度は小さな路地へ入った。
 用宗は静かな町で、一歩裏通りへ入ればほとんど人に会わない。時代のついた古い建物が立ち並び、しかも建築年代が微妙に異なる。目の前にさまざまな「過去」が現れては消えていく。現実の町というよりは、何か抽象的な時間の濃淡を歩いているような気分だった。
 交差点に突き当たったので、左に折れて海岸へ向かった。海は目と鼻の先にあった。海岸沿いの散策路を歩いたが、護岸工事のダンプカーが行き交い、のんびりできなかった。結局、写真を撮っただけで駅へ戻った。
 午後二時二十分。ちょうど二時間ほど滞在した計算になる。だが短い時間の間に、日差しはよほど午後らしくなっていた。白っぽい光が、プラットフォームにしどけなく広がっている。列車が来た。僕は乗り込んだ。無人のプラットフォームがぐんぐん視界から遠ざかっていった。(この記事は2022年10月に改稿しました。)

用宗港


用宗駅のプラットフォーム


用宗の海水浴場から大崩海岸をのぞむ