断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

旅人と旅好き―湯川秀樹の自伝『旅人』(1)

 学者とか研究者とか呼ばれる生き物には二つの種族がある。「ビーバー」タイプと「クモ」タイプである。ビーバーは自然の枝や泥を用いて壮大なダムを構築する。同じように「ビーバー」タイプの研究者は、情報をすすんで蒐集し、それを加工して研究成果を作り上げる。一方のクモは、自らの体から分泌する糸で巣を作り上げる。「クモ」タイプの研究者も、外部の情報よりは自分自身の思考に頼って、研究を構築しようとするのである。
 要するにそれは、精神のまなざしが「外」へ向いているか、それとも「内」へ向いているかの違いである。むろん以上に述べてきたのは理念的な両極に過ぎず、実際には二つの傾向は混在している。個人の気質が、純粋でまじりけのない「型」として現れるのは稀であるし、そもそも研究という仕事自体、二つの傾向のどちらも必要としている。単なる情報の蒐集がそのまま研究成果とはならないように、単なる思考もまた、それ自体としては何物でもないだろう。思考なき素材の蒐集は盲目だが、素材なき思考の展開は空虚である。
 歴史上の哲学者を例に取れば、プラトンは「クモ」タイプ、アリストテレスは「ビーバー」タイプということになるだろうが、しかしプラトンは、世間離れした思惟の世界に閉じこもっていたわけではなく、驚くほど多様な人間知を持っていた。アリストテレスにしたって単なる知識の渉猟家ではなく、強靭な論理の力を所有していたのである。
 にもかかわらず類型としての二つは間違いなく存在している。それは学者が何を研究対象として択ぶかということにも表れているはずである。たとえばプラトンが現代に生まれてきたとして、彼が生物学を専攻するなどということはちょっと想像できないし、アリストテレスが数学を専攻するということも、多分起こらないであろう。
 湯川秀樹の父、小川琢治は地質学者であった。明治の初頭に紀州藩儒者、浅井南溟の次男として生まれた彼は、幼時に四書五経を学び、後漢書三国志、晋書などの漢籍に親しんだが、のちに上京し、地質学を専攻することになった。
 上京した当時は、自分が何を学びたいのかも分かっていなかったが、二つの出来事が彼の進路を決定した。一つは病気で御殿場に転地療養をしていた際、目前にそびえる富士を眺めながら、いつか健康になってあの頂を征服したいと強く願ったこと。もう一つは同じ年(1891年)の秋に、濃尾地震を目の当たりにしたことである。
 その後、紀州へ帰郷した彼は、南紀を周遊する旅に出、雄大な自然を目の当たりにして、地質学を専攻する心を決めたらしい。湯ノ峰温泉から熊野川の本流、有名な瀞八丁、そして本州最南端の潮岬へ至り、そこで漢詩も作った。
 以上の経歴は、湯川秀樹の『旅人』というエッセイにかなり詳しく記されているものである。大学院へ進んだ小川琢治は、その直後に地質調査所に勤めることになった。旅から旅へ、調査から調査へという慌ただしい日々は、地質調査所から京都大学へ移るまで続いた。