断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

牧之原台地散策

 金谷は旧東海道の宿場町で、五十三次のうちの二十四番目である。東京方面から行くと、島田を出て大井川を渡ったすぐのところで、SLで有名な大井川鉄道の始発駅でもある。
 幕府の政策で、大井川には橋がかけられなかった。橋だけでなく船による渡河も禁じられていた。旅人は川越(かわごし)人足にお金を払って川を渡らねばならない。川の越し方には色々あって、「肩車(かたくま)」という人足の肩に跨る方法や、連台という板の上に乗って担いでもらう「連台越し」、あるいは馬に跨ったまま渡る「馬越し」などがあったという。
 「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」という有名な唄にあるように、増水時には渡河できなくなる。そのため金谷は、今でこそ静かなこぢんまりとした町だけれど、往時は対岸の島田とともに大変な賑わいぶりだったらしい。
 現在の大井川は、上流にいくつもダムが作られてかなり水量が減っているが、それでも大河らしい堂々たる水勢を保っている。ましてや大雨の後など暴れ川の趣を呈する。江戸時代は水深が四尺五寸(百三十六センチ)を超えると渡河禁止になったという。実際に大井川を見たことがある方ならお分かりと思うが、あの流れの速さで水深が百三十センチを超せば、ほとんど恐怖を感じるレベルであろう。
 実際、川越人足は一朝一夕の訓練でなれるような仕事ではなかった。十二歳のころから見習いの仕事をはじめ、十五歳におよんで「水入り」と呼ばれる身分へ昇格、その後も苛酷な訓練を積んで、ようやく一人前の川越人足(「本川越」と呼ばれる)になるのである。高度な技術をもつ職人衆で、専門集団としての自恃の念も強かったらしい。
 幕末には千数百人もいた川越人足も、明治の世になってお役御免となった。同じころ職を失った将軍護衛の幕臣・数百人が、金谷の背後に広がる牧之原台地へ開墾に入った。それから間もなく大井川の川越人足も加わった。こうして出来上がったのが牧之原の茶園なのである。
 金谷駅から国道一号線沿いにちょっと歩いたところに、旧東海道の石畳がある。そこをしばらく上ると突然、広大な茶畑の眺めが広がる。これが東洋一とも称される牧之原の茶畑だが、開墾の辛苦を偲ばせる痕跡はどこにも見当たらない。ただ熱帯地方のプランテーションを思わせる日本離れした風景が、川越人足たちの常人離れした膂力を彷彿させる。
今回僕が歩いたのは、茶園の北端、大井川の山塊がなだらかな台地へ移行するあたりだった。折しも新茶の季節で、萌黄色の茶畑が彼方まで輝きわたっていた。
 台地を横切って谷へ下り、そこから再び林の道をたどって台地の上へ出た。金谷の町は反対側の斜面の下にある。広い茶園と静かな里山、森、古い石畳などが交錯する変化に富んだコースだった。(この記事は2022年10月に改稿しました。)


電車から撮った大井川の流れ。折しも雨の後で増水していた。


広大な牧之原台地の茶園


明るい林の中の道


台地の下の谷に広がる里山風景


金谷方面の山腹の茶畑