断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

駿河湾フェリーのこと

 駿河湾フェリーというのは、駿河湾を横断して静岡の清水と伊豆の土肥を結ぶフェリーである。清水から乗船すると、左手に富士山を、右手に三保の松原を眺めながらのおよそ一時間の船旅である。気軽な船旅が楽しめるのと、伊豆の西海岸への好適なショートカットとして、私も何回か利用した。
 ところが今年の春、不採算を理由に一年後に廃止すると発表された。慣れ親しんだ船にもう二度と乗れないと思うと、さすがに寂しい気がしたが、さしあたり一年間の「猶予」がある。せめてそれまでに、できる限り乗っておきたいと思った。
 一度目の旅は、三月の終わりだった。土肥から西伊豆の海岸沿いに南下、途中で大沢温泉に寄って、友人と下田で合流した。二度目は七月の初め、同じく土肥から、今度は中伊豆方面を目指し、あちこちの温泉に入りながら最後は三島に出た。これからする話はこの二回目の旅のことである。
 朝の八時の便で清水港を出た。船室で缶ビールを開けていると、「進行方向の右手にクジラが見えます」という船内放送が入った。あわてて外へ飛び出してみると、ちょっと離れた海面にクジラの背中が見え隠れしている。スマホに収めようとしたが、タイミングがうまく取れないうちに、早い船足でクジラは置き去りにされてしまった。
 土肥に着いたら陸酔いがした。ちょっと波が高かったせいだが、こんな経験は初めてである。すぐにバスに乗り込み、30分ほど乗って船原温泉で下車した。最初の目的地は「時之栖湯治場ほたる」という温泉施設である。バス停を下りて周囲を見渡すと、すぐにそれと分かる建物が目に入った。さっそく歩いていくと、なんと閉まっているではないか。開店は11時。現在時刻は10時過ぎである。もっとちゃんと調べておけば良かったのだが、大きな施設であるし、まさか朝の11時まで開かないとは思わなかったのである。
 何という馬鹿さ加減だろう。自分の無計画ぶりに我ながら腹が立った。一時間ここで待つか、それともバスに乗って次の目的地へ行ってしまうか。しかし次のバスがすぐ来るはずもないから、どっちにしてもかなりの時間をロスしてしまう。
 とりあえず時刻表を見ようと、さっきのバス停まで戻って行った。するとすぐ隣の「上州屋」という店の前にいたおじさんが、
「どうしたの?コーヒーおごるよ。ウーロン茶もあるよ!」
 と声をかけてきた。私は事情を話し、この近くで温泉に入れてもらえるような宿はないかと訊ねた。
「ちょっと待って。電話で訊いてみるから。」
 こういうと彼は携帯電話を取り出した。何度かかけてくれたが、通じないようだった。思うに朝のこの時間帯は、宿は客を送り出して建物中の掃除でもしているはずである。どのみち入浴のほうは望み薄である。そう思って諦めかけると、
「すぐそこだから一緒に行こうよ。僕が紹介してあげるから。」
 そう言って歩き出した。連れて行かれたのは、道を渡ってすぐのところにある「船原館」という旅館だった。玄関に入ると、ちょうど泊り客を送り出しているところだった。お風呂は掃除中だが、すぐに入れるとのこと。紹介ということで料金も割り引いてもらった。
 源泉かけ流しの湯で、しかも一番風呂である。当たり前だが客はほかに誰もいない。窓の外には美しい川音が響いている。湯船の上に不思議な静けさが漂っている。客を送り出したあとの旅館には、一種不思議な非日常の時間が流れているものだが、この浴室にもそうした時間が流れていて、思いがけず私もそこへ紛れ込んでしまったような気分だった。
 お湯から上がって建物の外へ出た。道を渡って上州屋に戻り、ご主人にお礼を言った。次のバスまでまだ時間があるので、アイスコーヒーをいただいてゆくことにした。
 店の中を見渡すと何やら色々なものが飾ってある。昔の映画ポスターやランボルギーニのプラモデル、年代物の古い扇風機。どうやら「昭和」をテーマにしたコレクションのようである。そこへご主人がやってきて、私の前にある竹製の箸入れを手に取って説明し始めた。
「ね、いいでしょ、これ。特許とったら大儲け間違いなし!」
 何と答えたらいいか分からなくて黙っていると、後ろのコレクションの中にある二着の制服を指さした。
「あの左の学ランは、地元の学校に通っていたときのもの、右の制服は学習院時代のものです。今の皇太子さまは僕より二学年上なんですよ!」
「へえ、そうなんですか。」
「ウソですよ、ウソ!信じちゃだめですよ。」
 ああ、こういう人なんだと分かって、思わず大笑いしてしまった。アイスコーヒーをおいしくいただき、バスが来たのでお礼を言って外へ出た。
 その後は三つの温泉をはしごして三島の駅に出た。自宅に着いたのはかなり夜が更けてからである。
 さてその駿河湾フェリーだが、最近のニュースで、路線存続の方向で話が進んでいるのを知った。事業形態は未決定だが、さしあたり来年度は県や地元自治体が運営を引き受けるという。まだまだ先行きは不透明だけれど、何とか廃止は免れそうである。今回訪れた船原温泉にしても、船がなくなれば三島から修善寺経由でバスに乗って往復するしかない。おそろしく行きづらい場所なのである。だが船があれば、土肥から中伊豆をぐるっと回りながら気軽に立ち寄れる。次に訪れたときは、上州屋のご主人も「今の天皇陛下より二学年下」になっておられるであろう。


春の恋人岬にて。土肥からちょっと南へ下ったところにある



「船原館」の建物



お世話になった上州屋さん