断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

久方ぶりの句作

 今週から後期の授業が始まった。その直前となる週初めの月曜日、大井川の川根温泉へ出かけてきた。三連休の最終日で多少混雑していたが、ストレスを感じるほどではない。まあこんなものかといった感じである。いずれにせよここの湯は、いつ行っても混んでいる。
 浴場へ向かう廊下の脇に、プロ野球落合博満氏の写真とバット、サインボールが飾ってある。現役時代に月に数回(!)、東京から二時間半かけてここへ通っていたという。むろん体のケアが目的なのだが、お湯だけが目当てなら、もっと近くて便利な場所がいくらでもあるはずである。
 実はこの温泉には数棟の貸し切りコテージがあって、それぞれに源泉かけ流しのお湯がついているのである。それを使えば他の客と顔を合わせる心配がないわけで、氏のような有名人でも、他人の目を気にせずのんびり過ごせるということだったのだろう。
 話は前後するけれど、今回の温泉行にはもう一つ、別の目的があって、長らく遠ざかってしまった句作を再開するつもりだった。かなりの期間さぼってしまったので、相当量のリハビリが要りそうだったが、まあそれは自業自得というもの。金谷駅でJRから大井川鉄道に乗り換え、サンドイッチをほおばりながら久々に俳句歳時記を開いた。
 秋の句を片っ端から読み進めてゆくうちに、みるみる自分が別の世界へ没入してゆくのを感じた。ふと目を上げると窓の外には、ようやく金谷の市街地を通り過ぎて大井川の谷へ近づきつつある現実の秋の風景がある。本の中には、それよりももっと秋らしい本物の秋があって、車窓を流れ去る仮象の秋から、実在の秋へ深々と入り込んでいくような気分だった。
 川根温泉笹間渡の駅で下車した。そこから温泉へ歩いて五分ほどだが、すぐには行かないで山のほうを散歩することにした。車の多い道をちょっと行ってから脇道へ入り、笹間川沿いの林道をしばらく歩いてゆくと、もうそこは誰もいない山の真っ只中である。私はカバンを下ろし、ペットボトルのお茶を飲んだ。
 句をひねり出そうとしたけれど、何も出てこない。歳時記の繊細で多彩で芳醇な「自然」に比べると、現実の自然は何と単純でそっけないことか。生まの自然を貶めようというのではない。その素朴な飾り気のなさに、思わず笑みがこぼれてしまうのである。やっぱりこれは仮象ではないな。そう思って自分一人で納得してしまった。
 大自然の中にいると、身体だけでなく心までが、自然と同じ素材で織りなされているように思えてくる。何か微細な快活さのようなものが、自然のいたるところに遍満していて、知らぬ間に心がそれに感応してしまうのである。そうして自分の心に、何か揺るぎないバネのようなものが生じるのを感じる。

大井川明るき方へ秋の水
蟻穴に日のくぐもりて残暑かな
満ち来たる潮のごとき残暑かな
山羊の目の色深うして曼珠沙華
雲ひとつ裏山に干す秋日かな 
稲架立てて日の香の目立つ棚田かな


笹間川の谷にて