断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

池大雅と「精神」

 先週の水曜日は東京芸大の授業の初日だった。久々に上野へ出たが、ちょっと早めに着いたので、東京国立博物館の常設展へ寄った。
 本館の二階は縄文時代から江戸時代まで、時代順に日本美術の流れを概観できる仕組みとなっている。玉石混交の展示だが、保存の問題を考えると仕方がないのだろう。だが最近は、SNSで拡散しているのか大量の外国人観光客であふれている。日本美術の初歩の鑑賞者を相手に、第一級の作品と二級三級の品をごたまぜにして見せるのはいかがなものかという気もする。現代の複製技術をもってすれば高度なレプリカも可能だろうから、たとえばレプリカだけで構成した国宝や重要文化財のコーナーを作る、などというコンセプトもあってよいのではないだろうか。
 それはさておき、ふだん私が訪れるのは、二階の第7室と第8室である。ここは安土桃山から江戸時代の書画と障屏画が並べてある。建物のちょうど反対側には古代中世の書や絵画を並べているフロアもあって、こちらもなかなか見どころがあるが、個人的に仏画があまり好きでない(こちらのコーナーは仏画が中心)ので、たいていは第7・8室のほうへ直行する。
 この日もコインロッカーへ荷物を入れると、すぐ二階へ上がり、第8室へ足を踏み入れた。入ってすぐのところに南画が数点、並べてあった。そのうちの一点が、池大雅の「秋景山水図」であった。大雅にしては凡庸な出来栄えだが、それでも横に並べてある他の南画と比べると「モノ」が違う。
 作者の「精神」といってもいいし、作品の「精神性」といってもいいのだが、そういう考え方は、現代においてひどく古めかしい時代遅れのものになってしまった。かわりに現代人は、すべてを作品の「効果」に還元しようとする。作者の「精神」がにじみ出ているように見えても、それは見かけの上でのことであって、実際は作品の「効果」(画法や文体における効果)に過ぎないというのである。
 しかし「秋景山水図」のような作品を見ると、「精神」と呼ぶほかないようなものの存在を、おのずと考えさせられてしまう。作品としての出来不出来ではない。技術や技法に還元できないもの、「気韻」というほかないものが漂っているのである。俗な言い方をすると画面の「オーラ」が違う。他の画家たちの作品と並べてみると、たくさんの造花の中に一輪だけ本物の花が混じっているといった趣なのだ。


池大雅「秋景山水図」