断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

作者と「精神」

 前回の記事で池大雅について書いたが、そのことに関連して少し補足的に書いてみたい。
 芥川龍之介は最晩年の漱石を「才気煥発する老人」と評している。世間の人々は漱石を「枯れた文人」だったように回顧しているが、そんなのはウソだ、あの人は死ぬまで青年みたいな人だった、芥川はそう言っているのである。なるほど絶筆『明暗』の文章は、いたるところ「才気煥発する」漱石にあふれている。しかし言うまでもなく、才気煥発する文体がいつも才気煥発する作者の手になるわけではない。枯れた文人が溌剌たる文章を書くこともできるだろうし、逆に脂ぎった俗物が枯淡な文体をものにすることだってできなくはなかろう。作者の人となりと作品の「精神」との間に、必然的な結びつきがあるわけではない。実際、漱石以外の書き手が『明暗』の文体をまねることだって可能なのだし、場合によってはAIによる模倣だってできなくはないだろう。
 だがこれが『門』となると、話は少し違ってくる。緊張感あふれる『明暗』とは対照的に、『門』はしっとりと落ち着いた文体で書かれている。しかし読み進める内に、そのいぶし銀のようなくすんだ色調の中から、ふいに驚くほど若々しい気分が立ち上ってきたりする。文体だけであれば『門』も模倣可能であろう。が、行間から立ち昇ってくる「才気煥発」は果たして模倣できるものなのか。
 ロラン・バルトは「作者の死」ということを言い、文学テクストを実体的な作者に還元することを拒んだ。だが彼は一方で「作者は死んだ。しかし私は作者の断片を愛する。」とも述べているのである。なるほど作者の精神が、テクストのすべてを支配しているなどと言ってしまえば誤りになるだろう。「精神」はもっと目立たないところにある。多分それは「断片」として、作者の手からは離れたところに、たとえば行間から立ち昇ってくる「気分」として、テクストのいたるところに遍在しているものなのだろう。