断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

歳時記の美学

 俳句の季語は、一部は伝来の和歌や連歌などに由来するけれど、俳諧連歌の成立とともに新たに多くの季語が生まれた。新しい季語は、俳諧の創成期に限らず近代以降も多く生み出されている。

 蚊柱や棗(なつめ)の花の散るあたり 

 江戸中期の俳人、加藤暁台(きょうたい)の句である。はじめて読んだとき、蚊柱という語が季語として使われるようになったのは、何となく暁台のこの句が初めてのような気がした。季重ねで「なつめの花」を使っているし、「蚊柱」は晩台の時代には季語としてまだ一般的でなかったのではないかと勝手に推測したのである。実際は西山宗因に「蚊柱に大鋸屑さそふ夕べ哉」という句があるし、其角も蚊柱の句を作っているのだが。
 暁台の句が「蚊柱」の初出だったかどうかは、いずれにせよ第二義的な問題に過ぎない。重要なのは季語を「はじめて使われたもののように」使っているかどうかである。蚊柱という現象を、棗のあの小さな目立たない花と一緒に配した暁台の工夫は、間違いなく新らしい美の創造であった。この創造の「新しさ」は、歴史的経緯における新しさとは別次元のものだ。
 新たな季語の創始は、単に歴史的な現象としてだけ価値があるわけではない。そこに新たな美意識が創出されたことにこそ真の意義があるといえる。ある言葉を季語として使い始めるということは、伝来の美意識が思いも及ばなかったような新しい種類の「美」を見出すことである。
 しかしこのことは、実をいうと俳諧における創造一般にも当てはまることである。蕪村の有名な言葉、「俗語を用ゐて俗を離るる」というモットーは、俳諧の創作における機微を物語っている。俗語はそのまま使えば単なる俗語に過ぎない。「俗を離るる」には、俗語を通して新たな「美」を発見する必要がある。その際、当の俗語が初めて使われたかどうかということは第二義的な問題である。同じ言葉がすでに何度も使われていようが、そのつどそれは「はじめて使われるもののように」使われねばならない。そこにこそ、和歌や連歌にはない「たえざる異化」としての俳諧の魅力がひそんでいる。
 季語は一般的な語とは違って、概念的な意味のほかに美的な意味をも担っている。そのような意味ないし含蓄は、原理的には新しい句が作られるたびに増大する。概念においては、語の規定性が高まればそれだけ適用範囲は狭くなるのだが、同じことは美的な意味には当てはまらない。「蚊柱」の美的な含蓄が増大したからといって、それを適用できる場所が狭まるわけではない。むしろそれは美的な創造の可能性を増大させる。
 歳時記には無数の季語が収録してあり、それぞれの季語には複数の「句例」が添えられている。一つ一つの句例は、それが一個の「創造」である限りにおいて、季語の美的な含蓄を増大させてきたものである。
 一つの季語というカテゴリーの中に、それを使った複数の句が並べられているのを読むと、各々の句には、増大する美的内包の上昇線のようなものがひそんでいて、それらが彼方に不可視の美の理念を指し示しているように思えてくる。むろんこの「理念」は不動のイデアのごときものではない。可能的な美の総体へと向かう複数の上昇線があって、それらが収斂する「ありうべき季語のすがた」が、遠くにおぼろげに感知されるということである。
 寺田寅彦は歳時記を「日本人の感性のインデックス」と呼んだ。しかし歳時記は単に私たちの感性の過去を集積したものではない。それは季語の美の「ありうべき未来」も示唆している。そこにあるのは、言うなれば私たちの感性の「可能的な綜合」である。