断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

島田市「ばらの丘公園」

 三日前の水曜日は上野の東京芸大での仕事で、その行きがてら上野公園を散歩した。まばゆい秋の光りに満たされた園内を歩きながら、ふと三島由紀夫の「ドルヂェル伯の舞踏会」という評論の冒頭部分を思い出した。家に帰って久々にこの作品を読み返してみた。

 1920年初頭のドルヂェル家の舞踏会に僕も招かれて客になった。ドルヂェルの館はこの眩ゆい秋の輝きのなかに寥落としていた。空はギリシャ悲劇の大詰のように、「豊穣その物による一の苦悩」を映して、たとえばサルヴァドル・ダリが描いた秋空のように、残酷なほど朗らかに晴れわたっていた。僕は呼鈴を押した。手応えがなかった。もう一度ながながと押した。物音一つそれにこたえようとはしなかった。―思い切って扉を強く押すとそれは難なく内側へひらいた。
 階段も寄付の間も、高窓から注ぐ秋の光輝のうちに森閑としていた。サロンも同様であった。人がかつて呼吸した空気はどこにも残っていなかった。しかしそれは別段、人がこれから呼吸することを妨げるような空気ではなかった。きわめて壊れやすいフラスコの内部のような沈黙がはりつめていた。

 
 話は前後するのだが、ちょっと前の週末のことである。午前中の作業後、ふと思い立って島田市の「ばらの丘公園」というところへ出かけてきた。JRの島田駅にレンタサイクルがあるのを知っていて、それで行くつもりだったのだが、うっかり身分証を持ってゆくのを忘れてしまった。ダメ元で受け付けのおじさんに訊いてみると、「ああ、そんなのなくても大丈夫だよ」とのこと。うれしい対応である。都会ではこんなことはまかり通らないだろう。さっそく自転車を借りてバラ園へ向かった。
 ちょうど秋のシーズンが始まっており、園内は素晴らしい香りにむせかえるようだった。雨の近さを思わせる空模様で、しっとりと潤いのある大気がバラの香りと入りまじっていた。香りと湿りの化合物が、分かちがたい全体となってバラ園を宰領し、屋外なのにまるで繊細な「フラスコの内部」にいるような気分だった。
 ひと通り花を見て回り、ちょっと外れたところにある展望台に上って、山の向こうの水平線を眺めているうちに、ふと自分がバラの香りに染まってしまっているのに気づいた。私の身体がではない。心がでもない。私の存在そのものにバラの香りが隈なく浸透し、香りが私の外にあるのか、それとも内にあるのか、分からないという感覚であった。
 展望台から下りてくると雨がぱらつきだした。あまりのタイミングに苦笑しながら私はバラ園を後にし、自転車にまたがって島田駅へ向かった。身体にまとわりつくように降りかかってくる雨粒に難儀しながら、山間の舗装路を下っていったが、市街地へ通じるトンネルを抜けると、雨は止んでしまっていた。


島田にある「ばらの丘公園」


写真は記事の内容とは関係ありません(=⌒▽⌒=)