断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

顔真卿展

 上野の国立博物館で開催されている「顔真卿展」を観てきた。平成館の広い二つの展示室を使っていて、むろん顔真卿一人ですべての展示場を埋められるはずはなく、篆書から隷書、そして楷書へといたる書体の変遷、王義之から初唐の三大家(虞世南、欧陽詢、褚遂良)を経て顔真卿へ至る流れ、そして日本および後代への影響という展示内容だった。
 書に限ったことではないが、展覧会で一番見ごたえがあるのは個人の作品を集めたものであろう。逆に一個の美術館や寺社の所蔵品をまとめて展示するという企画は、期待外れなことが多い。「顔真卿展」はいわばこれら二つの中間に位置している。そこには、一個の人間精神の発展におけるような緊密な有機的連関はないが、かといって総花的な寄せ集めというわけでもない。これは書の歴史的発展という、構成された緩やかな連関である。
 個人をテーマにした展覧会ならば、順を追って全体を観なければ、片手落ちというか消化不良の感が残る。しかし数千年におよぶ書の歴史であれば、観る側も随意に好きな部分だけ切り取って観ることができる。
 さてこれだけ前置きをした上で白状すると、筆者は展覧会の前半は、ざっと眺めただけでほとんど見ていない。会場が混雑していたためもあるが、何よりもすぐ後に大学の仕事が控えていて、時間的余裕がなかったからである。
 そんなわけでしっかり観たのは比較的空いていた第二会場(つまり展示の後半部分)のほうだが、第二会場を入ってすぐのところに、展覧会の目玉ともいうべき「祭姪文稿」が展示されていた。しかも第一会場で人の流れがせき止められていたおかげで、こちらはそれほど混んでおらず、ゆっくりと観ることができた。
 「祭姪文稿」は数少ない顔真卿の肉筆で、日本初公開だという。安史の乱で死んだ一族、とりわけ顔李明への弔文の草稿で、「悲痛と義憤に満ちた情感が紙面にあふれています。最初は平静に書かれていますが、感情が昂ぶるにつれ筆は縦横に走り、思いの揺れを示す生々しい草稿の跡が随所に見られます。」(東博のHPより)
 しかし私が最も感動したのは、同じ部屋にあった懐素の「自叙帖」であった。懐素は顔真卿とも親交のあった人で、張旭の流れをくむ草書の名手である。酒を愛し、酔った勢いで狂草体と呼ばれる奔放な草書を書き散らしていたという。「自叙帖」もそんな草書の一つで、懐素の代表作の一つだが、今回、これを観ただけでも会場へ足を運ぶ価値があったと思わせるような素晴らしい作品だった。
 一気呵成に書いたような速筆だが、乱れた感じが少しもない。出来栄えの濃淡もほとんどない。それでいて計算ずくといった感じはまるでなく、何か作者の精神が紙の上で自在に泳いでいるという印象を受ける。あるいは剣の達人の構えのようでもある。ゆったりしているけれど隙がない。奔放だけれど無駄や間延びとは無縁である。「自在」という言葉がこれほどぴったりくる作品を、私はほとんど見たことがない。
 ところで自在感というものは、何らかの客観的なものとの対抗関係において初めて現れ出るものであろう。鳩が自在に飛ぶには空気の抵抗が必要である。逆に単に主観的で恣意的なものには自在感はない。ここで「客観的なもの」とは、一方では筆や紙といった物質的なものであろうし、他方では規範や規則といったものであろう。逆説的だけれど筆者は、そうした「客観的なもの」の存在を、この「自叙帖」という作品に強く感じたのであった。