断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

空へ向かって開かれた庭 ― 吐月峰紫屋寺

 吐月峰紫屋寺は東海道丸子の泉ヶ谷というところにある。1504年の創建だから、建てられてすでに五百年以上が経っている。もっともはじめは、連歌師宗長が結んだ小さな庵に過ぎなかった。この草庵が、のちに今川氏親の援助もあって、庭園で有名な現在の紫屋寺となるのである。
 宗長は1448年の生まれで、島田の鍛冶職人の子だといわれている。しかし彼自身は「つたなき下職のものの子ながら、十八にて法師になり……」と書いているきりで、出自に関して確たる史料は残っていない。出家後に今川義忠(氏親の父)に仕えたが、折しも駿府を訪れた宗祇の案内役をつとめ、それを機に連歌の道へ入った。それから十年後の1476年、今川義忠は急死する。宗長は駿河を離れ、京都に上って宗祇に師事した。宗祇と宗長、肖柏による「水無瀬三吟」の成立は1488年、同じ三人の手になる「湯山三吟」は1492年である。
 それから四年後の1496年、宗長は駿河に戻って義忠の子、氏親に仕えはじめる。実は義忠の死後、今川家には内訌があって、氏親は波乱の一時期を過ごしてきていた。父が没したとき、氏親はわずか四歳に過ぎず、義忠の従兄弟・範満との家督をめぐる抗争に巻き込まれてしまったのである。けっきょく家督は範満がつぐことになり、幼い氏親は母とともに追放同然の身で焼津小川(こがわ)に隠棲した。範満の殺害後に今川家を継いだのはそれから11年後、1487年のことである。

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 紫屋寺のある泉ヶ谷という谷は、丸子の街道筋からさらに奥へ入ったところにある。かつての東海道は国道一号線が走っていて、交通量はかなり多い。泉ヶ谷は国道からは脇に入ったところにあるが、谷の入り口にバイパスの高架があって、やはり車がうるさい。しかし谷の奥へ入ってゆくと車の音は遠ざかり、やがて瓦屋根の家々が閑寂なたたずまいを見せ始める。今回私が訪れたのは二月の終わりだったが、穏やかな薄日の差す中、散りかけた梅の花がしきりに匂いを放っていた。
 寺の前にある小さな石橋を渡って受付へ行き、入館料を払って建物に上がった。私のほかに数人の客が居合わせたが、受付の女性がガイドをしてくれた。
 建物の南側に借景の丸子富士が見える。円錐形のきれいな山である。往時は冬に雪が積もったらしく、実物の富士さながらの眺めだったという。有名な庭園は建物の西側にある。月見石というのがあって、十五夜の時分にここに立つと、東の山から月が上るのが見えるという。その東側の山は京都の嵯峨野から移殖したという竹が茂っている。月が上る際に竹の茂みが月を吐くように見えるから、「吐月峰」という名がついたのである。建物の北側には小さな茶室があり、その上に天柱山という山が覆いかぶさるようにそびえていた。春は山桜が美しいという。
 茶室を見物し、建物全体をぐるっと回って玄関のほうへ戻ってくると、寺の宝物が並べられている場所がある。武田信玄寄贈の高麗焼の茶碗、後水尾天皇直筆の和歌、足利義政下賜の文福茶釜などの品々が、古ぼけた小棚に無造作に並べられていた。

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 今川氏親は、桶狭間の戦いで有名な今川義元の父にあたる人物である。少年期の不遇を乗りこえて家督を取り戻し、父の遺志をついで隣国の遠江を奪取した。武田氏の甲州へもしばしば出兵している。国内では検地を行い、分国法を定めて、戦後大名としての今川氏の礎を築いた。有名な安倍の金山を開発したのもこの氏親である。
 これらの事実から見えてくるのは、勇猛な武将にして優秀な政治家という人物像である。しかし歴史を読む私たちは、単なる事実の羅列には満足しない。より具体的な「人間」の手触りを求めて、さまざまな想像をめぐらすのである。むろんこれは、歴史が想像や空想の産物であるというのではない。歴史は「人間」を対象とする以上、史料を超えた想像や空想へ、おのずと私たちを導くということである。
 すでに書いたように、氏親が今川の家督を取り戻したのは1487年である。焼津小川へ追いやられてすでに十年が経っていた。不思議なことに彼は、すぐには駿府の館に入らず、それからさらに十年も丸子に居を置き続けたたという。範満派の残党がいて、不穏な動きが絶えなかったせいではないかと史家は推測しているが、本当の理由は分からないらしい。いずれにせよ丸子はかなりの期間、氏親の居城としての役を果たした。
 宗長が駿河に戻ったのが1496年、紫屋寺の創建が1504年だから、紫屋寺は氏親が駿府へ移った後に建てられたということになる。しかし氏親はしばしばここで茶会を開いたというから、駿府へ戻ってからもずっと、折を見て丸子に滞在していたようである。よほどこの土地が気に入っていたのであろう。
 ここから先は筆者の勝手な想像である。焼津小川へ追放されたとき、氏親(幼名は龍王丸といった)は四歳そこそこであった。それから十年間といえば、人生で一番多感な時期である。しかも立場上、いつ命を狙われてもおかしくない身だった。焼津小川は志太平野が海へ落ちるだだっ広い土地である。周囲には何もなく、大軍で攻め立てられたら逃げのびるすべはない。武家の子とはいえ、これがどれほど心細かったかは容易に想像がつく。
 紫屋寺のある泉ヶ谷は、丸子城の東側に当たる谷で、当時は城の一部だったという。なだらかな山が多い静岡ではちょっと珍しいくらい急峻な谷で、尾根一つ隔てて羽鳥の町があるにもかかわらず、今でもまともな道路が通じていない。しかも丸子と駿府の間には、安倍川という別の自然の障壁も控えている。
 谷沿いの道を歩きながら、私はしきりに鎌倉の町を思った。鎌倉も三方を山に囲まれていて、数多い谷戸が自然の防御壁となっている。
 要するに泉ヶ谷は、あらゆる点で焼津小川と対照的なのである。だだっ広い無防備な土地から、天然の要塞ともいえる場所へ移ったとき、少年はどれほど安堵を覚えたことだろう。泉ヶ谷を宗長に与えたのも、単に不要になった土地を下賜したのではなくて、はじめから自分も滞在する心づもりだったのであろう。

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 ガイドが終わって他の客は退散しはじめたが、私はもう一度庭の前へ立った。ここの庭を見るのはこれで三度目だが、はじめて見たときからずっと気になっていたことがあった。簡素で小さな庭なのに、不思議な広がりを感じさせるのである。私はそれを、正面の大椿の背後にある高い竹林のせいだと思っていた。空へ向かって伸びるこの竹林が、庭の狭い空間を上方へ引き延ばしている。そんな視覚上の効果だろうと考えていたのだが、何となく腑に落ちないものがあった。
 大椿の前には小さな池がある。池は庭の真ん中にあって、中天に月が上ると、水面におびただしい月光を満たすという。先刻耳にしたそんな説明を、思い出すともなく思い出しているうちに突然腑に落ちた。月を見る目的で造られたこの庭は、そもそものはじめから空へ向かって開かれていたのだ。それが庭全体に、実際以上の「広がり」を与えていたのだ。考えてみればこれほど当たり前のことはない。なんと私は迂闊だったのだろう。
 月見石の前にはもう一つ、座禅石というものがある。宗長が座禅に使っていたという石である。彼は京都にいたころ、一休宗純のもとに参禅していた。寺の宝物にも一休から譲り受けた托鉢用の鉄鉢が残っている。
 宗長は今川家の外交顧問として、各地の武将と交渉に当たっていたという。彼は日本各地を渡り歩いた花形文化人であり、武将たちとも幅広い人脈を保っていた。彼に限らず当時の連歌師は、政治の制約を超越した一種のコスモポリタンだった。あまつさえ禅の教えは、宗長をしてあらゆる俗事を超越せしめたに違いない。融通無碍な彼の精神にとって紫屋寺は、世俗を避けての隠遁の地というよりは、折々の短い宿駅、たまゆらの滞在地のようなものだったのであろう。「空(そら)へ向かって開かれた庭」は「空(くう)へ向かって開かれた庭」でもあったに違いない。だがそれは氏親にとっても同じだったのだ。庭は氏親に安らぎを与えたかもしれないが、政治と戦争に明け暮れた彼の人生にとっては、ついに美しい仮象に過ぎなかった。
 二つの対照的な人生行路が、庭を介してふいに一本につながるのを、私は見たように思った。池の脇には、わずかに花を残した紅梅がぽつねんと佇んでいた。古い大和絵の点描のようなその赤い散り残りを眺めながら、私はぼんやりと、茶室の脇に小さな枯滝があったことを思い出していた。