断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

雨の中の桜

山桜というものは、必ず葉と花が一緒に出るのです。諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の八十パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まああれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了うわけだ。(小林秀雄「文学の雑感」より)


 ソメイヨシノが俗悪がどうかはさておくとして、桜の美が野趣の美であることは、都会にいるとなかなか分かりづらい。しかし桜の季節の山歩きをしてみると、山の斜面に点々と咲き誇るピンク色の花が、芽吹き始めた周囲の木々といかにも美しく調和しているのに驚かされる。緑が吹くように桜は花を吹くのであって、それはまるで同一の生命が別々の現れ方をしているかのようである。
 さて昨日は芸大で初回の授業で、三週間ぶりに上野へ行ってきた。公園内の桜もすでに終わりかけており、季節外れの冷雨が降りしきる中、もはや花見客も見当たらなかった。が、散りかけた桜が若芽と混じりながら、冷たい雨の中に煙っているすがたは美しかった。満開のソメイヨシノは造花のように豊満だが、散りかけはむしろ儚げで、枝の新芽と美しく調和している。山桜にこそ桜の美の本質があるという小林秀雄の意見にも納得させられるのである。