断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

改元雑感

 連休中はやるべきことが山積していたが、あまりはかどらないまま迎えた昨日、藤枝市蓮華寺池公園に足を運んできた。折しも藤の季節で「藤まつり」が開催されていたが、肝心の藤の花はすでにほとんど散っていた。
 公園の一角には藤枝市の「郷土博物館」があり、そこで「昭和レトロ家電展」がやっていた。令和が始まって早々、平成ではなくて昭和をテーマとした展示をやっているのは面白いと思った。平成は終焉したが、その歴史的な全体像は未だ不分明である。むしろ明確な像をもつに至ったのは昭和のほうなのだろう。つまり改元によって生じた「平成」という一つの時代が、私たちの内に明確な区分線を引き、昭和という時代を見る不動のパースペクティヴを形成したということなのだろう。
 改元によって歴史の流れがせき止められるわけではないが、歴史を見る人間のパースペクティヴは多かれ少なかれ影響を受ける。ところで「パースペクティヴなき歴史」とは背理以外の何ものでもないから、改元は歴史を形成する一つのファクターというべきなのだろう。
 とはいえ現実問題として元号は、着実に西暦にとって代られようとしている。日本の敗戦の年を昭和20年と言われても1945年と言われてもピンとくるが、1995年と平成7年、あるいは2011年と平成13年とでは、明らかに西暦のほうがイメージしやすい。しかしその一方で元号という制度が、日本の文化のあり方と合致する一面を備えているのも確かである。
 ヨーロッパの町、たとえばワルシャワドレスデンなどは、戦争で徹底的に破壊された後、昔日そのままの姿で復元された。これは労力面でも費用面でも大変なものだったに違いないが、そうまでして過去の街並みを復元したのは、過去の文化遺産の尊重というよりは、共同体のアイデンティティーを目に見える物質的なもので担保したいという欲求によるのだろう。異民族の侵入や侵略が常態であったような国々では、共同体のアイデンティティーを保つには目に見える何かが必要である。
 これに対して日本では、共同体の歴史的持続は「自明の事柄」であった。日本における(少なくとも民間レベルでの)歴史的文化財への無頓着さは、そのような「自明性」と表裏の関係にあると思う。いやむしろそのような社会においては、文化の物質的な層は定期的に「リセット」される必要があるのかもしれない。精神のレベルで持続が確信され、しかも物質のレベルで何も変わらないとしたら、それは呪われた永生のようなものであろう。不老不死とは何ら喜ばしいものではない。それは不治の病のような何かである。
 改元とは時代の「リセット」である。だがそれは旧い時代からの断絶ではない。持続を前提とした「リセット」である。その意味でそれは、仏教の輪廻思想とのアナロジーにおいて語ることができるかもしれない。輪廻も魂の持続を前提とした、新たな生の開始だからである。
 ところで仮に前世というのがあるとしたら、私は過去の生の「因果」を、何らかのかたちで現世でも負うているはずである。が、それは過去の罪過の記憶ではなく(私は前世の記憶を何一つ持っていない)、現在の生に記された無形の刻印のようなものであろう。前世は私の所有であると同時に非所有である。輪廻における「過去」とは具体的な記憶「内容」ではなく、現在の生の抽象的な「形式」である。しかし現在への影響力という点で言えば、「内容としての過去」よりも「形式としての過去」のほうが圧倒的に重い。前者は人生のあれやこれやの出来事に影響するだけだが、後者は人生の全体を規定しているからである。重いにもかかわらず、私は現在の生を記憶の桎梏のもとに生きる必要はない。輪廻において過去の記憶は「忘れられる」からである。そこには独特な種類の「自由」がある。
 私は思うのだが、もしも輪廻思想が決定論のようなものだとしたら、つまり私たちの人生が前世によって全面的に規定されているとしたら、そもそも人間が繰り返し生まれてくることの「意義」はどこにも認められないだろう。だが生まれ変わってきた魂は、前世を変更不能な所与として生きるのではない。少なくともそれは前世の記憶からは「自由」なのである。この「自由」に基づいて新たな生を開始すること、あたかも全てがゼロからの出発であるかのように生きること、またそれによって、前世の負の遺産を一つ一つ消し去ってゆくこと、要するに架空の「自由」を足掛かりに「過去」を超克すること、これこそは輪廻による生まれ変わりの「意義」なのであろう。
 平成の終焉にあたって、日本の政治や経済、社会が回復不能な袋小路に入っていると感じられている方も多いのではないだろうか。私もその一人なのだが、しかし打ち明けていうと、改元による解放感というか、軽い安堵も感じているのである。改元によって平成の「負の遺産」が免除されるわけではない。むしろそれはいよいよ重くのしかかってくることは確かである。が、ともかくもそれは心理的にはいったん「リセット」されたのである。
 むろんこの「リセット」は形式的なものに過ぎない。実際にそれによって何かが変わるわけではない。しかし歴史の面白いところは、無意味で形式的なものが、えてして意外なほど大きな動因ともなりうるということである。それは人間集団が本来的に非合理的な存在で、物理学におけるような厳密な法則には従わないからである。そこでは原因と結果の関係が一義的ではない。たとえば群衆はささいなきっかけで盛り上がったり騒ぎを起こしたりする。同じように社会も、時にわずかな刺激で大きく動いたりする。
 もしも改元というものに何らかの「意義」があるとしたら、それ自体としては空虚な「リセット」が、何らかの「再生」の機縁となるようなケースであろう。見かけの上での「忘却」が実質的な「変化」につながる場合であろう。