断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

セネカと衝動買い

 昨日で芸大の前期の授業は終了。それよりちょっと前のことになるが、久々に神保町の古書店街を訪れた。最近は古本はもっぱらネットで買うようになっているから、神保町を訪れるのも少なくなってしまった。だが仮にお目当ての本がなくても、古本屋巡りは楽しい。掘り出し物と出会うチャンスもある。昔読んでどこかへ行ってしまった本と再会できる楽しみもある。
 駿河台下の交差点に出、三省堂に立ち寄ってから古書店街を歩き始めた。とある書店の店先で新入荷の文庫本が山積みされていた。平日の朝というのに暇人らしい数人が、掘り出し物を狙って本の山を漁っている。そんな彼らの様子を見ているうちに、俄然、私も一緒に漁りたくなってしまった。岩波文庫を中心に10冊近く購入。すでに持っている本もあればそうではないものもある。要するにただの衝動買いだが、全くの無駄買いというのではなくて、仕事帰りに電車の中で読むつもりであった。
 衝動買いの欲望を満足させ、意気揚々とお茶の水駅へ歩いて行った。電車に乗りこむとすぐに「戦利品」を取り出してみた。セネカの『人生の短さについて』(岩波文庫)をパラパラとめくっていると、こんな文言が目に入った。「無数の書物や蔵書を一体どうしようというのか―その所有者が一生の間に表題さえ読むことのないそれらを。これらの本の山は学習者の重荷にこそなれ、その教えにはならぬ。それで、数人の著者だけに身をゆだねるほうが、多数の著者の間をさまよっているよりも、ずっとよい。」
 私は引っ越しのたびにまとまった量の本を処分しているから、蔵書といえるほどの本を持っていない。むしろ「数人の著者だけに身をゆだねる」タイプだと思う。それでも本を買うのは好きで、たまには無意味な衝動買いもしてしまう。セネカは同じ箇所でこんなことも言っている。「十分な冊数の書物を求めるのはよいが、一書といえども贅沢のためのものであってはいけない。」しかし無駄や贅沢にもそれなりの効用はあるのであって、無意味に買ったつもりの本が、思いもかけない情報を与えてくれたり、場合によっては生涯の愛読書になるなどということは、多くの人が経験していることだと思う。
 のみならず人間の欲望は、欲望の対象だけでなく、欲望それ自体へも向かう。守銭奴はお金が好きだからお金を貯め込むのだろうか。それともお金を貯め込むのが好きだからお金を貯め込むのだろうか。ナンパ師は女が好きだから女をひっかけるのだろうか。それとも女をひっかけるのが好きだから女をひっかけるのだろうか。
 欲望のための欲望、いわば欲望の自己増殖というものは、文化や経済の不可欠の推進力である。もしも私たちが、欲望の対象を手にしただけで満足し、欲望のほうもそれによって終息してしまうならば、人間の文化は今よりもずっと貧寒な、味気ないものになっていたであろう。無駄や贅沢は文化の根幹であり、必要不可欠なコンポーネントである。
 ただし「欲望のための欲望」というものに一種の卑しさがつきまとっているのも事実である。セネカの批判はそのような卑しさ、人間の虚栄や行き過ぎた所有欲といったものへ向けられているのである。