断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

熊谷守一の「あぢさい」

 静岡県立美術館で開催されている「熊谷守一 いのちを見つめて」展を見てきた。熊谷守一は私の好きな画家の一人だが、まとまった量の作品を見るのはほぼ一年ぶりである。東京美術学校在学当時から最晩年の作品まで、さらには書や日本画、スケッチ、遺品なども展示されていた。しかし何といっても彼の真骨頂は、いわゆる「モリカズ様式」と呼ばれる独自の様式を確立してからで、展示作品もそれらの作品が中心になっていた。
 「モリカズ様式」というのは、赤い輪郭線に縁どられた色面を特徴とする守一独自の画法で、齢七十(!)を過ぎてようやく確立されたものである。単純化された色面によって構成されるそれらの絵は、一見したところ静謐な印象を与えるが、じっと見つめていると画中の「生命」が動き出すのが感じられる。だがそれは、写実主義的な意味での「リアリティー」とはちょっと違う。描かれたどの対象にも、画家の愛情に満ちたまなざしが向けられていて、それが対象を生き生きと動きあるものに見せるのである。
 75歳を過ぎたころ軽い脳卒中を患った彼は、それ以降あまり外出しなくなった。自宅の庭に池を掘って魚を放ち、多くの草花を植え、そこで日の大半を過ごすようになった。庭の一角に何時間も寝そべり、取り巻く自然の小世界を眺め続けた。アヤメ、熊蜂、山ぶどう、つゆ草、石亀などのモチーフはこの庭で得たものである。そのように描かれた虫や動物、草花などには、「愛」と呼ぶほかない画家のまなざしが宿っている。多くの場合それは、小さな命をいつくしむような優しい感情だが、巧まざるユーモアや遊び心、またときに一抹の寂しさのようなものが漂っていることもある。
 93歳のときに描かれた「牛」という作品を見てみよう(写真参照)。対象のリアリティーという観点からこの絵を眺めるならば、それは十分に「リアルな」作品である。線だけで描かれた四肢と大きな色面で描かれた胴体との対比、固く盛り上がった背中の描写、あごを引きこちらへ向かってくるような姿勢などは、牛の体躯の迫力ある重量感をよく表している。また牛と背景の二つの色面は、角ばった太い輪郭線によって区切られているが、両者は比較的近い色調だから、色彩相互の対比よりは線描の存在が前面に出ており、それが牛の力感をよく表現している。にもかかわらずこの絵の核心にあるのは、画家の牛への親愛の情であって、描法上のあらゆる技巧は、その核心へ向かって収斂しているように思われる。
 もう一つ「ほたるぶくろ」という作品を見てみよう(写真参照)。ほたるぶくろの淡い紫色と薄い緑色の背景という組み合わせは穏やかな印象を与えるものだが、蜂の黄と黒、茶色の色彩が、それに絶妙なアクセントを加え、心地よい音楽的な画面を作り出している。しかしここでも主導的なのは、蜂へ向けられた画家の慈しむようなまなざししである。仮にそれがなかったとしたら、あるいはこの絵は味気ない装飾的な作品に堕していたかもしれない。しかし画家のまなざしは、画面を単なる装飾美から救い上げ、対象に「リアルな」生命を注ぎこみ、身近な自然のかそけき息づかいを捉えることに成功している。

         ※

 絵画のリアリティーというとき、ふつうそれは描かれた対象のリアリティーを問題にしている。たとえば馬の絵にリアリティーがあるといえば、それは現実の馬を彷彿とさせるからである。
 しかし絵画のリアリティーには主観的なリアリティーというものもあって、たとえば表現主義的な絵画は、作者の主観性を画面に表現している。そのさい描かれたものが何であるかはさしあたり重要ではない。画家は現実に見たことのある人物や光景を描いているかもしれないし、空想上の風景を描いているかもしれない。あるいは単に抽象的な形象を描いているだけかもしれない。いずれにせよ第一義的に重要なのは、そこに作者の主観性が十全に表現されているかどうかである。描かれた馬に「真実の」馬とそうでない馬とがあるように、表現された内面も「真実」を感じさせるものもあれば、そうでないものもある。
 熊谷守一の絵画のリアリティーはそのどちらとも異なる。そこでは対象の客観性は度外視されてはいないが、創作上の主目的ではない。作者の主観性が切り捨てられてはいないけれど、孤立した内面性の表現とは違う。画面構成に細心の考慮が払われているにしても、抽象画のような自己目的的な表現とは異なる。彼の絵にあるのは、単なる客観的対象でもなければ孤立した主観的心情でもない。それは客観への志向的関係としての主観性である。むろんこの志向性は、単に観照的なものではない。愛情をこめて対象を眺め、その生命の息吹に無心に耳を傾けるような志向性、いわば情感的な志向性である。そこでは対象のリアリティーは、まなざしの情感性の相関物である。牡丹、水仙、つつじ、茶花、蟻、かまきり、熊蜂、金魚……。これらの対象は、仮にまなざしの情感性から引き離されてしまえば、単に「見られただけのもの」に堕してしまうだろう。画家の「愛」によって賦活されている画中の生命は、そのときことごとく失われてしまうだろう。
 展覧会では「あぢさい」と題された最晩年(95歳)の作品が展示されていた。土色の背景に多角形の緑が描かれ、その中にいくつかの青い円が配されている。シンプルな色面で構成された、ほとんど抽象画のような作品である。紫陽花の花をモチーフにした作品は、同時期に何点か制作されているが、それらはいずれも抽象度の高い作品である。
 カンディンスキーの制作史における具象画から抽象画への移行を見ると、描かれた対象の具象性が解消され、抽象的な形象へと還元されてゆくさまを観察できる。対象の色や形態は徐々に単純化され、やがて「何が描かれているのか」分からないものとなり、最後には色と形象の純粋な構成美へと行き着く。
 同じようなことは「あぢさい」についても言えるのだろうが、しかしここでは別の契機もからんでいる。愛とは志向的な感情である。愛はいつでも何らかの対象へ向けられている。対象とは愛における本質的な契機である。「相手の愛を求めない愛」(リルケ)ならば場合によっては可能かもしれないが、「対象をもたない愛」などというのは矛盾以外の何ものでもない。ところが「あぢさい」という作品は、「アジサイと言われなければ、誰にもアジサイと分からない」(武者小路実篤)にもかかわらず、「愛」と呼ぶほかない何ものかが画面に(画面それ自体に!)感じられるのである。
 なるほどこの絵は、タイトルなしには何が描かれているのか分からないかもしれないが、しかしそれにしても、ひとたび紫陽花と言われてしまえば、もはや紫陽花以外の何ものとも思えなくなるのも事実であって、それはこの絵が、厳密な意味での抽象画ではなくて、最低限の具象性(葉をあらわす緑色の多角形と、花をあらわす青い円)をとどめているからである。具象性は可能な限り削ぎ取られ、ほとんどゼロ点にまで近づいているけれど、純粋な抽象画のように解消されてはいない。そのわずかな具象性に画家の「愛」が、すなわち対象への情感的な志向性が結びついている。
 しかし逆の見方をすれば、この作品は対象の具象性が極度に切り詰められているがゆえに、かえってまなざしの志向性が独立的に前景化しているとも言えよう。他の多くの作品では、まなざしは対象と密接不可分に結びついていて、いわばリアリスティックな契機に溶解してしまっている。しかし「あぢさい」という作品では、まなざしはあたかもそれ自体が一つの対象であるかのように画面に浮かび上がっている。そこにあるのは志向性の可視形態とでもいうべきものだが、同時にそれは熊谷守一の絵画の本質でもあろう。彼の絵にあるのは孤立した客観でも主観でもなくて、主観の客観への情感的な関係性、志向性としての「愛」にほかならないからである。


「牛」


「ほたるぶくろ」

※「あぢさい」の画像は残念ながら私のほうで用意できませんでしたが、web上に「いのちを見つめて」展のカタログから転載された画像がありました。ご参照いただければ幸いです。