断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

ディーマ・スロボデニュークのモーツァルト交響曲第39番

 猫の記事が書きかけのままなのだが、今日はちょっと別の話題を一つ。YouTubeで見つけたモーツァルト交響曲第39番。ディーマ・スロボデニューク指揮、ガリシア交響楽団の演奏である。

https://www.youtube.com/watch?v=wiN7PYujia4

 私はモーツァルトのこの交響曲第39番は、ハイドン以降の交響曲史上で空前絶後のものだと思っているのだが、それはこの作品が、ハイドンベートーヴェンブラームスショスタコーヴィチなどの幾多の名曲の中で最上の作品だという意味ではなくて、優美と力感という相反する二つの要素が、ほとんど比類ない仕方で綜合されているからである。
 とはいえ、一つの曲の中で対比的な要素が用いられているケースはそれほど珍しいものではない。喜悦と悲哀、歓喜と苦悩、軽やかさと重々しさなどといったものを、弁証法的に対立させつつ、高次の綜合へいたるというパターンは、むしろクラシック音楽において常凡の手法である。交響曲39番についても(私はここで主に第一楽章のことを述べているのだが)、壮麗な序奏から優美な第一主題への移行、第一主題とその直後の力感あふれる経過部との対比などといったことは、すでに語りつくされたことであろう。
 この曲において驚嘆すべきなのは、優美さと力強さという二つのものが、対立関係を経て綜合されることではなく、両者がはじめから相互に完全に浸透していることである。序奏の壮麗はすでに優美を内包しているし、第一主題の優美もまた、すでに力感によって賦活されている。それゆえ優美な第一主題に続いて力強い経過部が現れたとき(ここは第一楽章のクライマックスというべき箇所である)、私たちはそこに相反する二つの要素の弁証法的な対立関係を見るのではなく、すでにあらかじめ萌芽として存在していたものが、単に現実化しただけのように感じる。「綜合」がいたるところですでに予め成就されているということ、それゆえまた優美さとも力強さとも異なるいっそう高次の「美」が開示されているということ、これこそは真に瞠目すべき点である。そしてそれは、おそらくはモーツァルトにしか達成できなかったことであろう。
 ディーマ・スロボデニュークはロシア出身の指揮者で、1975年生まれだからちょうど40代半ばである。私はたまたま最近YouTubeで知ったのだが、実はすでにベルリンフィルを振っているらしく、この夏にはN響の公演のために来日していたという。この交響曲は、技術的にはとりたてて難しい曲ではないが、上述の「綜合」を演奏面でも表現しなければならず、そうした意味では特別な困難さをはらんでいるように思われる。指揮台の上での彼の、メリハリの効いた美しい手の動き、いや身体全体の動きは、楽譜に内在する不可視のイデアを可視化し、オケそのものと一体化しつつ、この「難曲」をほとんど天才的といってよい変幻自在の見事さでさばいている。クラシック音楽に興味のある方だけでなく、そうでない方もぜひ動画を覗いてみていただきたい。