断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

池大雅のこと

 先日、ビールの空き缶がかなりたまってきたので、ポリ袋に入れて近所のホームセンターへ持って行った。空き缶を回収するコンテナへ、袋を逆さまにしてジャラジャラと缶を流し込みながら、 ふとこんなエピソードを思い出した。
  池大雅とその妻玉瀾のところへ、ある時祇園神社から寄進の所望が来た。押入れに入れたままにしてあったお金があったので勘定してみると、300貫(現在の金額にして500万円前後)もたまっている。夫婦で背負って祇園神社へ行き、全て寄進してしまった。
 僕はこのエピソードを中野孝次の『清貧の思想』で知った。「清貧」というのは、現代人にとってもはや死語に等しい概念だが、試みにネットで検索してみると、案の定ある作家が「『清貧』などというのは金持ちの道楽に過ぎない」とディスっていた。
 確かにそれも一理あるのだけれど、大雅のエピソードをただの「道楽」で片付けてしまうわけにはいかない。有名になってからの大雅はかなりの謝礼金を手にしていたらしいのだが、物欲や金銭欲とは無縁で、極貧ともいえる若い頃からの暮らしぶりを変えなかった。謝礼金は自分では手をつけずに、それ用の箱の中へ入れてもらい、出入りの商人に米や味噌の代金を催促されたら、その箱から勝手に取っていってもらった。夜中に泥棒が入り、床の上に置きっぱなしにしていた30両(250万円程度)を盗まれても平然としていたという。実際この時の寄進も、祇園社のほうではたかだか300文(4000円程度)を所望しただけであった。「相手は貧乏な絵描き」と認識されていたのであろう。
 先輩の文人画家である祇園南海が、若き大雅の訪問を受けた時、その印象をこう書き記している。「一たび之に接して、即ち雲外の鶴標、俗塵中の人にあらざるを識る。」また同時代人の清田儋叟(せいたたんそう)もこう評している。「軽薄の習、露ばかりもなし。(…)大雅の書画は逸品に入るべし。畢竟一点の俗悪の気なし。」
  飄逸、恬淡、高雅、洒脱といった大雅の人柄を物語るエピソードは様々に語り伝えられているが、中でも有名なのは、伴蒿蹊の『近世畸人伝』にある以下のようなエピソードだろう。
 あるとき大阪のほうで書画の会があり、 大雅も招かれて出かけて行った。ところが肝心の筆を忘れてしまっているのを、妻の玉瀾が気づいた。すぐに筆を持って夫の後を追いかけ、 建仁寺の辺りで追いついたのだが、「どこのどなたか存じませんが、よくぞ拾ってくださいました。」とだけ言って受け取り、そのまま立ち去ったという。
 『畸人伝』には「道人おしいたゞき、いづこの人ぞ、よく拾ひ給りし、とて別レ去。妻もまた言なくて帰れり。」とだけ記されていて、当人の心理状況については、何の解説もついていないが、おそらく絵のことで頭がいっぱいだったのだろう。
 何年か前に京都国立博物館で、かなり大がかりな池大雅展が開かれた。僕は行けなかったけれど、聞くところによると、何十年ぶりかの大回顧展にも関わらず、それほど混雑していなかったという。専門家の間では大雅は依然として高い評価を得ているのだが、一般レベルの人気では、同世代の伊藤若冲に大きく水をあけられてしまった。
 これにはいろんな原因があって、例えば南画というジャンルの分かりづらさもその一因であろう。しかし一番の原因は、彼の絵に冠せられる「精神性の高さ」という標語ではないだろうか。これは内容空虚な但し書きの類いではなくて、大雅を見慣れた人ならば誰しも頷けることなのだが、しかし私たち現代人は、そもそもそういう観点から芸術作品を眺めることに対して、一種のアレルギーを持ってしまっている。
 僕はこれはもったいないことだと思う。「精神性」などという得体の知れないものは抜きにして、純然たる造形的観点から眺めても、彼は最高度の芸術的達成を成し遂げている。七歳のときに万福寺で書を書き、「神童」と賞賛された天与の造形感覚は、同じ南画家の蕪村はもちろんのこと、伊藤若冲などとも比較を絶している。

京都国立博物館所蔵の「漁楽図」