池大雅と岡潔
前回の記事についていくつか補足的なことを書こうと思っていたけれど、色々と忙しくてかなり日が経ってしまった。このあたりで書いておこうと思います。
池大雅が筆を忘れたまま家を出、それに気付いた奥さんが追いかけていったが、自分の妻だと気づかなかった。ありえない話のように思えるけれど、深く何かに没頭している時は、こんな事が起こってもおかしくない。
数学者の岡潔がこんな話を書いている。数学の問題に没頭している最中に、下の階にある時計を見に行く(時刻を調べに行く)。するとどうなるか。
熱中ぶりのいちばんひどいときは、何をしに行ったのか忘れて、便所へ行って小便をして、そのまま上る。考え込み方のもう少し浅いときは、時計があることだけを見て上る。文字どおり時計を見てくるわけだが、これでは仕方がない。もう少し浅いときは針の位置だけを見て、それを記憶する。部屋へ戻ってから、どちらが長針どちらが短針とだいたい推理して、それで何時何分かわかる。(『春風夏雨』より)
これがたとえば電車の中だとこうなる。
以前こういうことがあった。電車のラウドスピーカーが何かいったとだけわかってから、三十秒もたって、「あ、いまのは、あれは、次は三日市町、といったのだ」とわかった。(『春風夏雨』より)
おそらく池大雅も、筆を受け取ってしばらくたってから、「あ、いまのは、あれは、自分の妻だった」と気づいたのではないだろうか。
岡潔も風変わりなエピソードをたくさん残していて、『近世畸人伝』ならぬ『近代奇人伝』があれば必ず所収されたに違いない人である。例えば彼は普段、ゴム長靴を愛用していて、夏など暑いから冷蔵庫に入れて冷やしていたという。文化勲章の授賞式にもその姿で行こうとして、家族が慌てて止めたという話もある。ただしこれは、長靴を履いていると脳がよく働くという「目的意識」に基づく行為であって、ことさらに奇を衒ってやっていたわけではない。三島由紀夫がナルシスティックな自己顕示欲から、軍服を着て街を歩いていたのとはちょっと違うのである。
一般に、変人奇人は、自分がやっていることがごく普通のことであるという認識を持っている場合が多い。誰がどう考えても、「普通ではない」のだが、本人にその自覚がないのである。
奇を衒ったわけでない奇行、やっている本人に自覚がない天然自然の奇行こそ、本当の意味での個性と呼ぶべきものであろう。