断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

中野孝次『清貧の思想』

 ちょっと前に書いたブログ記事で、中野孝次の『清貧の思想』について触れた。その後この本を再読したので、今回はその感想を書いてみたい。
 『清貧の思想』という本は、令和の日本ではどのように受け取られているのだろうか。高度消費社会へのアンチテーゼ、物の豊かさより心の豊かさ、欲望の抑制による内面の自由、質素な生活様式への回帰、などといったところではないだろうか。厳密に調べたわけではないけれど、ネット上の記事やアマゾンの書評などを見る限り、大体そんな方向だと思う。
 しかし中野孝次は「清貧」という思想を、 物質主義へのアンチテーゼという消極的な側面からだけ論じているわけではない。なるほど「清貧に甘んじる」などという言い方がある。この本に出てくる芭蕉西行良寛などの生き様には、確かに「甘んじる」という言葉がぴったりくるような、消極的な側面もある。だが彼は一方で、マイスター・エックハルトタゴールアッシジの聖フランチェスコなどを引きつつ、自然や宇宙、さらには神との一体感といった、積極的な側面にまで踏み込んでいる。物質主義の否定は「清貧」の入り口に過ぎない。高度消費社会への警鐘などというものも、単なる付随的なテーマである。本来的な意義はもっとずっと先にあるのだ。
 「清貧」の本質は、楽隠居的なライフスタイルにあるのではない。むしろそこには、禅の「心頭滅却すれば火もまた涼し」にも通じるものがある。それはいわゆる断捨離とは似て非なるものである。むろん断捨離なしに「清貧」はありえないわけだが、断捨離がそのまま「清貧」となるわけでもない。
 「清貧」に到達するためには断捨離から始めなければならない。しかしその場合、どんな種類の断捨離でも良いわけではなく、「清貧」をはっきりと見据えた断捨離でなければならぬ。これは一種の循環である。「清貧」を知るには断捨離から入らなければならないが、断捨離を行うためには「清貧」の何たるかをすでに知っている必要があるからだ。
 循環を打破する手っ取り早い方法は、「清貧」の実物を目にすることであろう。実際この本にも、解良栄重(けらよししげ)の家に泊まった良寛が、無言の人格的感化を与えたエピソードが載っている。
 昔の小説を読むと分かるが、かつての日本にはそのような人物が(良寛ほどの境地には達していないにしても)、ごく普通に生活していた。もちろん俗物の拝金主義者や出世主義者もいっぱいいたけれど、それとは別に、禅的とも儒教的とも言える生き方を実践する人が、社会の広範に存在したのである。
 よく、今の日本には多様な価値観が存在すると言われる。そんなことは嘘である。多様化したのは、人々の価値観ではなくて趣味であり、価値観そのものは驚くほど単一的で画一的なのが今の日本である。
 『清貧の思想』がバブル崩壊期の一時の徒花に終わったのは、たぶんそうした事情と関係しているのだろう。生きた手本がいない時代に、清貧の「思想」だけを喧伝しても、断捨離的な「清く貧しく」というレベルで受け取られてしまう可能性が高い。いや実際、そう受け取られてしまったのであった。