断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

私の好きな小説1(北杜夫「こども」)

 医者から不妊症を言い渡された男が、他人の精子を使った人工授精を決意する。妻は晴れて妊娠するが、出産直後、あっけなく死んでしまう。残された男は、自分の子でないその子供を、わが手で育てることを余儀なくされる。
 子供は成長するにつれて邪悪な本性を見せ始める。男は心の内の憎悪や嫌悪感と戦いながら、ひたすら義務感で養育するが、子供はそんな男の努力をあざわらうかのように、学校や家庭で次々に問題を起こす。男の生活は荒廃してゆく。……
 こんなふうに書くと、いかにも深刻なテーマを扱った作品のように見えるが、この小説の魅力は、特異な設定にもとづく特異なテーマというよりも、子供という存在がもつ不気味な他者性を描いた点にある。その意味で主題は普遍的なものといえる。しかも、天使ならざる悪魔としての子供の本性は、子供らしい無邪気さと密接不可分に結びついていて、そのような「全体」としての子供を、リアルに生き生きと描ききったところに、この作品の真骨頂があるといえよう。
 作中にちらと出てくる田中という青年は、脇役のように見えて実は重要な役割を担っている。というのも、「悪魔的」であるはずのその子供が、自分を好いてくれている田中に対しては驚くほど素直になつくのだが、明らかにこれは「男」と「子供」の関係の陰画なのであって、「男」が「子供」の悪魔性を憎めば憎むほど、「子供」のほうでもますます「悪」を発揮させていると考えられるからである。
 そうした事情は小説の末尾の重要な伏線となる。
 小学校で女子生徒の性器を傷つけ、そのまま逃走した「子供」は、札束をかすめ取ろうとして「男」の仕事部屋に潜んでいたところを取り押さえられる。親孝行の一つもしろと迫る「男」に対し、「子供」は答える。


「だって、パパは、僕をぜんぜん愛していないじゃないか!」


 ついに「男」は、自分が本当の父親でないこと、それでも成人までは責任をもって面倒をみるつもりであることを告げる。
 


 子供はあっけにとられた顔をした。たじろいだふうにも見えた。すばしこく頭を働かせているようでもあった。兇悪なかげがたしかに消えてゆき、年齢にふさわしく邪気もない、ただ利発そうな華奢な少年の顔がそこにあった。しばらく、男と子供は無言で向かいあっていた。どちらも動こうとせず、なにかしら淀んだやすらぎにも似た呪縛の中で……。
(中略)
 次の瞬間、またもや子供の表情がかわった。すでにそこには、狡猾さと残忍さと人を人とも思わぬ嘲笑のいろだけがあった。
「ケ、ケ、ケ、ケ、ケケ」
 と、その口から、しわがれた怪鳥のような、人工的で金属的な笑い声がひびいた。
「そんなこと言って、うまくだまそうたって!」
 同時に、その小さな体は敏捷に男のわきをすりぬけ、あっという間もなく、もうドアのむこうへ消えていた。そのすばしこい一瞬の影は、小悪魔の化身そのものとも見えた。
 妹がなにか叫ぶ声がした。が、子供はとうに庭へとびだし、いずこかへ走り去っていったらしかった。