断想さまざま

山村浩(哲学・大学非常勤講師・藤枝市在住・宇久村宏=ペンネーム)の日々の断想です。

鬼と泥棒

 先日、芸大の檜山先生の退任記念レクチャーがあった。長年お世話になった先生が、平成の最後というタイミングで退官するのはちょっと感慨深い。そのレクチャーとパーティーに出るために久々に上野へ出たが、途中で伊豆の温泉へ立ち寄ってきた。
 私は実家に戻るとき以外はテレビ抜きの生活だが、旅に出てホテルに泊まると、チャンネルを回してしまう。その日もビールを飲みながら色んな番組を見ていたら、とある芸能人の詐欺事件のことをやっていた。すでに10年ほど前の事件で、当時はあまり興味がなかったが、今回はじめて詳しい経緯を知り、色々と考えさせられた。
 他人を平気で踏みにじる人間はどこの世界にもいるが、一見して詐欺師と分かるような人間(その芸能人なども多分このタイプであろう)がいる一方、見た目ではなかなか分からないケースもある。たとえば人柄が良さそうに見えて、裏でとんでもないことをやっていたという人間もあった。いずれにせよこの手の人間に近づいてはいけない。関わりを持たないのが一番である。
 さて「人を見たら泥棒と思え」という諺がある。その一方で「渡る世間に鬼はなし」ともいう。一見して相反する内容だが、よくよく考えると矛盾はしていない。「鬼」と「泥棒」を入れ替えてみればいいのである。「渡る世間に泥棒はなし」などと言われて、いったい誰が納得するだろうか。が、同じことは「人を見たら鬼と思え」についても当てはまるであろう。
 どんなに冷酷で非道な人間でも、心のどこかに人間らしい温もりがひそんでいる。そのような人間らしさを完全に欠いた存在、それが「鬼」である。「鬼」は人間ではない。「鬼のような人間」ならいくらでもいるが、「鬼そのもの」という人間はいないのである。鬼とは人間性のネガティヴな側面を抽出して純粋培養したような存在、善悪が同居する人間の心から「悪」だけを取り出して人格化した存在である。
 一方「泥棒」についていえば、たとえば目の前に不正を行うチャンスが転がっていれば、どんな人間でも多少は心が動かされるものである。実際にはそこで、不正を行う人間と行わない人間とに分かれるわけだが、しかし少なくとも心のレベルでは、誰もが多少は「泥棒」なわけである。「泥棒の心性」はどんな人間にもひそんでいる。道徳や倫理が意味をもつのは、そのような心性との闘いにおいてである。だからもしも、狡さや卑しさを全く持たない人間がいたら、その人にとっては道徳も倫理も意味をなさないであろう。そのような人間は、言葉の厳密な意味においては「道徳的」とも「倫理的」とも呼べない存在であろう。
 人間の心には善と悪が同居している。「渡る世間に鬼はなし」とは「世の中、100パーセントの悪人なんていませんよ」という教えであり、「人を見たら泥棒と思え」とは「世の中、100パーセントの善人なんていませんよ」という教えである。つまり誰も「鬼」になりきることはできないが、「泥棒」になる資質なら誰でも持っているのである。
 が、だからこそ泥棒を「行わない」ということが決定的な重みをもってくるのであろう。悪事を行えば他人に糾弾され、法律で罰せられるから、というだけではない。悪事は繰り返し行えばだんだん平気でやれるようになる。するとそれに応じて、心の悪い部分が善い部分に取って代る。悪事が心そのものを変質させるのである。世の中には生まれながらの悪人ともいうべき人間がいて、そういう人は平気でうそをつき、他人を踏みにじる。しかし悪人が悪事を行うだけでない。悪事が悪人を作り出しもするのである。